人間の姿勢推定アルゴリズムを用いた腰痛リスク評価アプリケーションの開発について
1.はじめに
労働災害による休業4日以上の死傷者数は近年増加傾向にあり、その原因の1つとして、対策のノウハウの蓄積されていない腰痛や転倒などの労働者の作業行動に起因する労働災害が増加していることが挙げられます1)。特に、陸上貨物運送業の腰痛発生率は全業種の平均を大幅に上回っており、腰痛予防対策の推進が重要な課題となっています。我々の研究グループは、厚生労働科学研究費補助金労働安全衛生総合研究事業24JA1005「陸上貨物運送業を対象としたMinds参照型腰痛予防対策ガイドラインの策定と予防対策の普及実装の推進」の交付を受け、陸上貨物運送業における腰痛予防に効果的な対策を推進するための研究に取り組んでいます。腰痛災害減少のためには腰痛リスクの要因を捉え、改善活動を進めていくことが必要ですが、そのためにはより簡単に腰痛のリスクアセスメントを行うツールの整備が必要です。
本コラムでは、腰痛リスク評価、そして作業の改善を促進するために本研究で開発している腰痛リスク評価アプリケーションについてご紹介します。
2.荷物持ち上げ作業における腰痛リスク評価法
心身ともに健康で働けるように作業や職場環境を設計する産業人間工学の領域では、種々の作業姿勢や動作における身体負担を評価するツールが多く利用されています。これは、多くの職場で腰痛をはじめとする筋骨格系障害の発生があり、その対策として作業を人間工学的に評価・設計するツールが必要なためです。職場の筋骨格系障害の主な要因として、重量物の取扱い、作業姿勢、作業回数などがありますが、作業設計・作業改善ではこれらの多数の要因による身体負担を同時に考慮しなければなりません。そこで、多くの基礎研究と現場への適用経験に基づいて、これまで様々な人間工学評価ツールが開発されてきました。
アメリカの国立労働安全衛生総合研究所(NIOSH)は、荷物取扱い作業に追える腰痛予防を目的とした作業評価や作業設計を支援するための人間工学評価ツールである「NIOSH Lifting equation(以下、NLE)」と呼ばれる計算式を公表しています2)。この成果を踏まえ、さらに適用範囲を広げたものがISO11228-1の評価法3)であり、現在日本においてもJIS化に向けた取り組みが進められています4)。
NLEは荷物を保持している手位置までの水平距離や床からの高さ、持ち上げの距離などの作業環境に関連する要因から、その作業条件で取り扱い可能な質量の限界値を示す推奨質量上限(Recommended Weight Limit, RWL)を計算し、実際に取り扱っている重量がRWLの何倍になっているかを示す持ち上げ指数(Lifting Index, LI)を求めることで腰痛リスクの判定を行います。具体的な説明は省略しますが、RWLが小さくなるような作業条件として、作業者の立っている位置から荷物を持っている手の位置までの距離が離れる場合や、身体のひねりがある場合などが挙げられます。基本的には、LIが1を超えると腰痛発症のリスクがあるとされていますが、多くの疫学調査に基づいて判定基準の妥当性が見直され、現在では1.5以下であればリスクは低いとみなされます。ただし、LIが 1から1.5の間となる作業では、高負荷な条件や極端な姿勢などに注意しなければならず、追加の分析を行うことが必要です。
NLEやその他の人間工学評価ツールに関するより詳しい情報は、作業姿勢や動作の人間工学評価ツールの情報を公開しているWebサイト(https://ergo4mfg.com/ )が参考になります。
3.姿勢推定アルゴリズムを用いた腰痛リスクの簡易評価アプリケーションの開発
NLEによる腰痛リスク評価は、作業する場や荷物といった人以外の作業場の設計による工学的改善を行うことを目的とした評価ツールであり、腰痛リスクを数値的に捉えることができる手法です。一方で、作業環境の測定が必要になることから評価の手間がかかることが課題として挙げられます。
このような課題を解決するために、ディープラーニングによる姿勢推定アルゴリズムを応用し、腰痛リスク評価を簡易的に行うことができるアプリケーション(以下、本アプリ)の開発を進めています。特に、ビデオカメラなどの映像から人の骨格を推定する技術は、これまで専門的な道具が必要だった人の姿勢測定をより簡単にすることができ、得られた姿勢情報からNLEにおけるいくつかのパラメータを推定することで、リスク評価をより簡単に行うことができるようになると考えられます。近年では、スマートフォンなどのモバイルデバイスでも3次元の姿勢推定を可能にするアルゴリズムが開発され5)、利用場面は急速に拡大しています。
図1は開発途中の本アプリの画面です。使用する機器のOSに制限されることなく利用できるようにするためにWebブラウザベースで動作するアプリで、①作業条件入力フォーム(図1では(a)のエリア)に直接数値を入力する方法、②撮影済みのファイルから姿勢推定を行う方法、③カメラによるストリーミングを用いてリアルタイムで姿勢推定を行う方法の3種類の方法で腰痛リスクを評価します。
①の方法はNLEの通常の評価方法です。入力したパラメータに応じてLIの値を計算し、判定基準に基づいてリスクの高さが示されます。これは静止画や動画の撮影が困難な場面でもNLEによる腰痛リスク評価を実施することを目的としています。
これに対して、②と③の方法が姿勢推定を応用したものです。②の方法では、撮影済みのファイルとして静止画・動画どちらも利用可能になっており、図1の(b)のエリアに姿勢推定アルゴリズムを用いて推定された骨格情報と合わせて表示されます。その際、姿勢推定で得られた骨格データからNLEの計算に必要ないくつかのパラメータを推定し、RWLとLIを自動的に見積ります。ただし、LIを算出するために、評価対象となる荷物質量については事前に入力しておく必要があります。最終的な評価結果として、簡易的なものが図1の(c)のエリアに、詳細な情報が(d)のエリアにそれぞれ表示されます。③の方法では、②と同様の処理をカメラで撮影している映像に対してリアルタイムで行います。このとき、映像は(b)のエリアに表示されます。
図1開発中の腰痛評価アプリケーション(PCでの表示)
なお、本アプリをスマートフォンで利用する際は図2のようにレイアウトが変化します。図1にあった(a)と(d)のエリアが表示されなくなりますが、映像と簡易評価結果を合わせて確認できるので、スマートフォンが備えたカメラで作業の様子を撮影するだけでNLEに基づいた腰痛リスク評価を簡易的に行うことが可能になります。
図2 開発中の腰痛評価アプリケーション(スマートフォンでの表示)
ただし、解決すべき課題もまだ多くあり、例えば、姿勢推定アルゴリズムについては通常のモーションキャプチャと比較すると推定精度が低下してしまいます。特に、陸上貨物運送業の現場では、図1 や図2のように全身が見えているような場面はほとんどなく、体の一部が隠れている場面が多く見られます。身体の一部が隠れるような条件では、人の姿勢推定の精度が低下してしまうため、NLEの評価制度も同様に低下することが予想されます。そのため、今後の研究では、対象者や身体の一部が隠れる条件やカメラの撮影の向きなどが変化した時に推定精度がどの程度低下してしまうのか、実験を通して本アプリの推定精度に及ぼす影響を明らかにし、これらを低減する手段とより高い精度での評価を実現するために必要な要件を明らかにしていく予定です。
4.さいごに
NLEは定量的に腰痛リスク評価を行い、作業環境の改善につながる腰痛対策を検討する上で有用なツールの1つですが、作業環境の測定が必要だった点が大きな負担でした。しかし、近年のディープラーニングによる姿勢推定アルゴリズムの発展により、人の姿勢の計測が比較的容易に行えるようになってきたことから、これを応用すれば、その負担を大きく軽減することが可能になると考えます。本アプリはこれを形にした提案です。推定精度を向上させ、多くの現場で腰痛のリスクアセスメントができるように、現場への普及における課題を解決していきたいと考えます。
参考文献
- 厚生労働省:第14時労働災害防止計画 https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001116307.pdf[PDF] (2024年10月17日確認)
- Waters TR, Putz-Anderson V, Garg A, Fine LJ. Revised NIOSH lifting equation for design and evaluation of manual lifting tasks. Ergonomics 1993,36(7),749-776.
- ISO, ISO 11228-1:2021 Ergonomics - Manual handling - Part 1: Lifting, lowering and carrying.
- 榎原 毅, 瀬尾 明彦, 北原 照代, 岩切 一幸, 谷 直道, 菅間 敦, S2C1-01 腰痛リスク評価に関する新規格JIS Z8505-1の概要と利活用, 人間工学, 2023, 59 巻, Supplement 号, p. S2C1-01, 公開日 2023/11/17.
- Bazarevsky, V., Grishchenko, I., Raveendran, K., Zhu, T., Zhang, F., & Grundmann, M. BlazePose: On-device Real-time Body Pose tracking. In arXiv [cs.CV]. 2020. arXiv. http://arxiv.org/abs/2006.10204