作業環境における有機化合物分析の低濃度化と個人ばく露測定に向けて
1.はじめに
令和3年4月から作業環境測定に「個人サンプリング法」という新しいデザイン・サンプリング法が選択できるようになりました。今のところ、管理濃度が特に低く設定されている一部の化学物質(『低管理濃度特定化学物質』)および鉛と、塗装作業など発生源が一定しない作業における『有機溶剤』および『特別有機溶剤』に限られていますが、将来は全ての作業へ拡大される可能性があります。そのため、これまで日本ではあまり行われていなかった化学物質の個人ばく露サンプリングの重要性が高まっています。
個人サンプリング法で用いられるサンプリング方法は、サンプラーのセッティングが違うだけで従来のA測定,B測定と基本的に同じです。ただサンプラーを装着するのは作業者自身なので、大きな機器を用いることは現実的ではありません。作業者の負担に配慮すると、ポンプ等の機器は出来る限り小型軽量なものとし、作業の邪魔にならないように装着位置やホース等の取り回しにも気を配る必要があります。つまり、個人サンプリング法では、測定を高感度化し、低流量の小型軽量ポンプでも定量下限・検出下限を確保する必要があります。
そこで当コラムでは、加熱脱着(固体捕集‐加熱脱着‐パージトラップ法)‐ガスクロマトグラフ(GC)分析法による高感度分析についてご紹介し、著者らが開発したオルト‐フタロジニトリルの測定法についても解説したいと思います。
2.加熱脱着法(固体捕集‐加熱脱着‐パージトラップ法)
あまり馴染みのない方も多いと思われますので、加熱脱着装置について簡単に説明します(図1)。
- 捕集管
機種によって異なりますが、欧米でも比較的よく使われているのは外径 1/4 インチ×長さ 90 mm で耐熱性のあるステンレスまたはガラス製のチューブで、中の捕集剤は目的に応じて選択します。 - 加熱脱着装置(機構)
捕集管にキャリアガス(GCと同じもの)を流しながら加熱し、捕集した物質を脱着させます。そのガスは機器内のパージトラップ機構へと導かれ、一旦冷却(ペルチェ素子による電子冷却)捕集します。捕集管から十分脱着し終えた後、その冷却したトラップを急速加熱し、捕集した物質を一気に気化させ、バンド幅を小さくしてガスクロマトグラフに導入します。
図1.加熱脱着‐ガスクロマトグラフ分析装置の概略図
この加熱脱着装置には、以下の利点があります。
- 全量導入が可能なため、高感度分析が可能
- 抽出や濃縮といった前処理が不要で、サンプリング直後に測定可能
- 捕集管および捕集剤が再利用可能
- 溶媒抽出法と比較して有害な有機溶剤が不要なので、分析者のばく露リスクが低い
- ガスクロマトグラフへの溶媒の導入がないため機器への負荷が少なく、溶媒ピークによる妨害もないので保持時間の短い物質の分析が容易。
一方、加熱脱着装置は、感度が高過ぎることが逆に不利となり得ます。濃度が数百 ppm 程度の有機溶剤の測定には向きません。パージトラップ機構の前後でスプリットをかけることでGCへの導入量を減らすことは可能ですが、それでも不十分な場合は試料採取量を減らす必要があります。
また、基本的には再測定ができないので、1試料につき複数個の捕集管を用意し、必要な数だけサンプリングしておく必要があります。機種によっては、コールドトラップから一部分をGCへ送り、残りを再度捕集管へ戻す機能によりこの欠点を克服可能ですが、定量性に対する不安を払拭するには、正確な流量や試料損失率などの確認や内部標準物質による定量性の向上・確保などが必要と思われます。
3.オルト‐フタロジニトリルの分析
現在、個人サンプリング法の対象とされる低管理濃度特定化学物質の一つとしてオルト‐フタロジニトリル(別名:フタロニトリル、1,2‐ジシアノベンゼン、ほか)があります。平成25年に特定化学物質障害予防規則の一部が改正され、オルト‐フタロジニトリルは作業環境測定の対象となり、管理濃度は 0.01 ㎎/㎥ に設定されました。オルト‐フタロジニトリルは常温で固体(融点: 141 ℃、沸点: 304.5 ℃、蒸気圧(外挿):0.8 - 3.8 Pa @ 25℃)のため、従来の測定方法ではグラスファイバーフィルターによるろ過捕集後、HPLCによって分析を行っていました。しかしオルト‐フタロジニトリルは管理濃度が低いため、ろ過捕集中に一部が蒸発して失われ、結果として濃度を過小評価する恐れがあります。そこで、試料採取方法はろ過捕集方法と気体捕集に適した固体捕集方法とを組み合わせたものとし、これに合わせて分析方法はガスクロマトグラフ分析方法としました。
管理濃度が 0.01 ㎎/㎥[≒ 0.0019 ppm]ということは、その1/10の濃度まで測定できる分析方法が必要ということです。即ち、分析に必要とされる定量下限値は 1 ㎍/㎥ となります。これを測定するには試料採取量を増やすか分析方法を高感度にする、或いはその両方を行わねばなりません。試料採取量を大幅に増やす為には、ポンプの流量や採取時間を大幅に増大させる、或いはフィルターや捕集剤を大きくすれば良いでしょう。従来のA,B測定のように、十分な測定場所と採取時間が確保できるならそれも可能ですが、個人サンプリング法では出来ません。一法として分析を高感度にすることが考えられますが、仮に試料溶液を濃縮して分析機器へ大量導入しても数十倍から数百倍が限度です。
そこで我々は、管理濃度(0.01 ㎎/㎥)の 1/10 の濃度、すなわち 1 ㎍/㎥ まで測定可能な測定方法として、新たに工夫を加えた Tenax TA 捕集管と加熱脱着(Thermal Desorption)-ガスクロマトグラフ質量分析計(GC/MS)を用いて定量する方法を開発しました。
3-1.捕集管(多相捕集管)
オルト‐フタロジニトリルは揮発性が高いため、ろ過捕集中に蒸発して失われるのではないかと考え、フタロジニトリルの蒸発試験を行いました。先ず、捕集剤を含まない空の捕集管にグラスファイバーフィルターのみを充填し、そこにフタロジニトリル溶液を添加後、清浄空気を流して溶媒を蒸発させました。次にTenax TAを充填した捕集管を前述の捕集管に連結させ、通気速度225 ml/minで10分間吸引し、Tenax TA捕集管中のフタロジニトリルを分析しました。その結果、蒸発速度は10 ng/minより大きく管理濃度(0.01㎎/㎥)を上回ったため、フィルターのみではフタロジニトリルを捕集し切れないことが明らかとなりました。
そこで新たな捕集管として、加熱脱着用のステンレス製捕集管に充填したTenax TA(200 ㎎)の上流側のスクリーン上に、固体のオルト‐フタロジニトリルを捕集する為のグラスファイバーフィルターを前置したものを用意しました(図2)。
図2.捕集管の概略図(実際は、スクリーンにグラスファイバーフィルターとテフロンリングを密着させる)
3-2.分析
試料は、Tenax TA(60-80 メッシュ)を200㎎充填したステンレス捕集管(内径5mm×長さ90mm)に、定流量吸引ポンプを用いて200 mL/minで10分間捕集しました。捕集した物質は加熱脱着装置を用いてガスクロマトグラフへと導入し分析を行いました。なお、新しい捕集管については、250℃で120分間の脱着を3回繰り返し、妨害ピークの無いことを確認してから実験に使用しました。
捕集管1本当たりの定量下限はオルト‐フタロジニトリル:0.09 ngで、これは採取した試料空気量が 2 L の場合0.045 ㎍/㎥ に相当し、管理濃度 0.01 ㎎/㎥ の1/10を十分定量できることが示されました。
4.おわりに
毎年追加される化学物質の有害性情報に基づき、新規の規制対象物質が加えられたり、従来からの規制対象物質の管理濃度が引き下げられたりしています。また分析する段階においても、扱う化学物質の量を減らして分析者のばく露リスクや環境への負荷を下げるため、今回ご紹介した加熱脱着法を用いた高感度測定は有用であると考えます。今後は作業者への負担が小さい方法(ポンプを必要としないパッシブサンプリング(拡散捕集法))の検討だけでなく、国内で活用する際の課題の解決や、情報提供などを進める必要があると考えています。