労働安全衛生総合研究所

作業環境中の測定のためのイオン移動度分析装置の開発

1.はじめに


 職場における化学物質ばく露は、労働者の健康に大きな影響を及ぼすことがあります。特に、工場などの作業環境では有害な化学物質を使用することが多く、適切な管理を怠れば健康障害の原因となり得ます。多くの場合、化学物質の健康障害は、ばく露の平均量(1日8時間、週40時間の時間荷重平均濃度;Time-weighted Average (TWA))を低くすれば予防できるものですが、一部の化学物質については、ばく露のピーク値が問題となる場合があります。天井値(瞬間でも超えてはならない濃度)や、15分間の短時間許容濃度Short-Term Exposure Limit (STEL)が設定されるのも、そのためです。図1に示すように、作業時間全体を通してのばく露量が8時間加重平均(8h-TWA)で規定される許容濃度を下回っても、特定作業時のピーク濃度がSTELを上回る場合があります。しかし、このようなばく露濃度の瞬間値を捉える実用的な方法は乏しいのが現状です。そこで現在当研究所では、前処理を必要せず、リアルタイムで作業環境中の化学物質を分析できる装置の開発を進めています。


2.イオン移動度分析装置


 作業環境中の化学物質をリアルタイムで測定できる装置として、大気圧下での測定が可能、可搬型に転用可能、分析時間が短い、などの利点を持つイオン移動度分析(Ion Mobility Spectrometry : IMS)装置を採用しました。イオン移動度分析とは、イオン群を標的粒子である緩衝気体(ここでは大気中の空気)で満たして、高電圧の均一電場がかかったドリフトチューブの内部に移動させ、そのときの移動速度から物質同定を行う分析法です。図2に示すように弱い均一電場がかかっている気体中を移動するイオンの群れは、電場による加速と気体分子との衝突による減速を複数回繰り返し、電場と平行な方向と垂直な方向にそれぞれ拡散しながら一定の移動速度で電場勾配にそって進行します。このときイオンの平均移動速度vdは電場の強さに比例します。

vd = KE

 この比例係数K は移動度と定義されます。移動度は気体分子の数密度N に反比例するので、標準状態(273.15 K、 101325 Pa) の気体密度に換算した移動度を換算移動度K0と呼びます。

 ここでTは気体の温度、N0は標準状態における理想気体の数密度であり、後者はLoschmidt数(N0=2.687 × 1019 cm-3) と呼ばれます。IMSではイオンの形状が複雑もしくはサイズが大きい場合、緩衝ガスとの衝突頻度が高くなるため移動速度が遅くなり、その結果、移動度及び換算移動度が小さくなります。このように移動度から物質の形状や大きさなどの情報を得る事ができるため、化学物質の同定を行うことができます。



3.本装置の特色・独創性


 従来、GC/MSで作業環境中の化学物質を測定する際は、捕集管に化学物質を吸着し、脱着してから定性・定量を行います。この方法では、図3に示すように、サンプリングから実験室までの移動や様々な前処理が必要なため時間がかかり、作業を代表する測定点と時間帯を選んでサンプリングを行う必要があります。一方、作業環境中の化学物質の濃度は、室温の加減や発生源の状態変化に応じて大幅に変動する場合があります。また、特定の作業を行うことにより急激に濃度が上昇することもあり、時間平均濃度を求める手法では精度の点で難があります。
 最近は、Photon Ionization Detector (PID)を使用してリアルタイムで化学物質濃度を知るケースも増えています。このPIDは、紫外線を化学物質に照射してイオン化させ電流値から濃度を見積もる手法です。PIDは導入した空気中の全ての化学物質に紫外線を照射するため、照射される紫外線のエネルギーよりイオン化エネルギーが低い物質はすべてイオン化されます。そのため、複数の化学物質が同時発生している状況で、低毒性の物質が高濃度で存在する作業環境では、個別の定量が困難となります。それに対してIMS装置は、PIDやGC/MS分析では困難だった特定作業による短時間高濃度ばく露を物質ごとに測定できるだけでなく、各々の物質濃度の経時推移をリアルタイムでモニターすることも可能になるなど、新たなばく露評価ツールとして期待できるものです。
 本研究では、メチルプロピルケトンとメチルエチルケトンを測定対象化学物質としたリアルタイム分析を考えています。これらは塗料、インク、接着剤の溶剤として、或いはアクリル・ウレタン・エポキシ樹脂などを洗浄する際に使用されています。特にメチルプロピルケトンは短時間ばく露量が重要な問題となる化学物質で、このような物質をリアルタイムでモニター出来る装置の開発は労働衛生上極めて重要と考えられます。これら以外にも測定対象物質を拡充し、短時間ばく露による健康影響物質に関する新しい知見を得たいと考えています。



4.まとめ


 IMS装置は大気圧下での動作が可能で真空ポンプが不要なため小型化が可能な上、応答速度が早いという利点もあり、作業環境におけるばく露評価ツールとして利用できる可能性があります。またこれらの特長を持ったIMS装置により、労働衛生の研究対象を拡張し多面的な解析が可能になると考えられます。
 将来は、IMS装置を短時間ばく露が問題となる化学物質の警報装置や、多成分リアルタイムモニタリングなどへ応用していくことなどを考えています。



(環境計測研究グループ 任期付き研究員  高谷 一成)

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