低濃度の測定が求められている労働環境中の金属分析
1.はじめに
化学物質を扱う労働者の健康を守るには、化学物質へのばく露をなるべく少なくする必要があります。そのためには、発生源の封じ込め、作業内容の変更、換気などの環境管理対策を行い、それでも十分にばく露リスクが減らせない場合は、マスクなどの保護具を使用します。環境管理や保護具の使用(選択)による対策を有効とするには、職場の空気中の有害化学物質の濃度を正確に知る必要があります。
近年、化学物質の有害性に関する研究結果を基に、その規制値や学会等の勧告値が厳しく(より低濃度に)変わる例が多くなっています。その中にはマンガンやクロムといった職場で広く使用されている金属やその化合物も含まれます。一例として、クロムでは米国の労働安全衛生研究所(NIOSH)が2013年にまとめた発がん性を持つとされる六価クロム化合物の職場におけるばく露に関するドキュメント1) で、0.2㎍/m³ (0.0002 ㎎/m³) というばく露濃度の許容値(REL)を提案しました。そして、米国の労働衛生の実務家団体であるACGIHが閾値として勧告しているTLVも、2018年に六価のクロムについて0.05 ㎎/m³から0.0002 ㎎/m³へと変更されました2)。NIOSHのRELもACGIHのTLVも、法的な拘束力のある値ではありません。法的な規制値については、日米の他、各国もまだここまで厳しい水準にはありません。しかし、リスクアセスメントの観点からは、勧告値の水準での管理を目指すことが望ましいといえます。
化学物質の濃度を低濃度で管理するには、職場の空気中の化学物質の濃度をより低濃度まで測定する必要がありますが、果たしてそれは可能なのでしょうか。本稿では、筆者の専門である金属・金属化合物(以下金属類と記述します)の例について紹介します。
2.誘導結合プラズマ質量分析
世界中で数台しかない研究レベルの特殊な装置を除けば、現在の金属類分析装置でもっとも高い感度が得られるのは誘導結合プラズマ質量分析(英語のInductively Coupled Plasma Mass Spectrometryの頭文字をとってICP-MSと呼ばれます)です。ICP-MSは、例えば極めて高純度の材料を必要とする半導体産業などで、材料や洗浄水中の不純物を測定するために使用されます。また、私たちが日々口にする飲料水の汚染を評価するためにも使用されます。ICP-MSを用いることによりppmの1000分の1のppbのさらに1000分の1であるpptの濃度までの測定が可能となります。ppmが100万分の1ですので、仙台市や千葉市にいるたった1人を見つけるのに相当する性能をもつということなのですが、これがppbなら10億分の1、世界中でたった7人しかいない人でも見つけることが出来る。pptなら1兆分の1です。もう人口で例えることも出来ません。
ICP-MSの性能を既存の装置の性能と比べてみます。現在労働環境中の金属類分析で主流となっているのは原子吸光分析という装置です。原子吸光分析装置のうち、広く使用される試料溶液をアセチレンガスの炎で気体にするフレーム式によって分析可能な濃度は、金属類の種類にもよりますが、 1・0 ppm 程度です。原子吸光分析に代わって、最近よく使用される誘導結合プラズマ発光分光分析(ICP-OES)という分析法があります。このICP-OESでは 10・00 ppb くらいの濃度の分析が可能です。ICP-MSが普及する以前に、最も高感度を得ることが可能だった電気加熱式(試料溶液を電気ヒーターで気体化する方法)原子吸光分析では、概ね 1・0 ppbの測定が可能です。現在の濃度の基準値(規制値や学会の勧告値)の濃度レベルであれば、原子吸光分析やICP-OESを用いて分析可能なので、既存の方法の1000倍以上の感度を有するICP-MSを用いれば、濃度の基準値が現在の値の1000の1くらいまで低濃度になっても十分対応可能に思えます。しかし、現実はそうではありません。
3.装置だけ取り替えればいいわけではない
ICP-MSだけで対応できない理由の一つに、ICP-MS単独では金属類の元素としての濃度を知ることはできても、その化学状態を知ることができないということがあります。例えばクロムは、合金や金属材料中に含まれる電子を24個持つクロム、電子が3つ少ない状態にある三価のクロム化合物、電子が6個少ない六価のクロム化合物では毒性が大きく異なるため、それぞれ別の基準値が存在します。このため六価のクロムを他のクロムと区別して分析する必要があります。六価のクロムの分析には、イオンクロマトグラフという方法が使用されます。今後、六価クロムをより低濃度まで管理するためには、イオンクロマトグラフ単独では感度が不十分なので、イオンクロマトグラフとICP-MSとを組み合わせて測定する必要があると考えられます。この場合、装置単独で使用するよりも装置の運転条件の最適化などが難しくなります。
もう一つは、空気中に存在する測定対象物質をそのまま測定装置に導入できないという問題があります。金属類の多くは、空気中に非常に微細な粒子として存在しています。一方、金属類の分析装置は原子吸光分析、ICP-OES、ICP-MSいずれの場合も分析可能な試料は水溶液です。そこで、労働環境中の金属類の濃度を測定する際は、これらの粒子をまずフィルター(ろ紙)に空気を通して捕集します。その後フィルター上に捕集した粒子を酸などの薬品で溶解して水溶液として分析を行います。粒子の種類によって溶解の条件が変わってきます。一方で、分析装置においても最適な溶液の条件が異なります。実際に筆者が検討したマンガンの例3) ですが、空気中の粒子を確実に分解でき現在広く使用されている分解条件では、ICP-MSが苦手とする塩酸を高濃度で含む試料溶液となります。そのためICP-MSで測定する際には、試料溶液を純水で希釈する必要があり、最終的にはICP-OESとICP-MSで分析可能な空気中粒子濃度は大差がないという実験結果となりました。現在のマンガンの気中濃度の基準値であれば問題ありませんが、今後、より低濃度まで測定する際には問題となります。他に、金属類の種類によっては、試料を酸ではなく、より装置に対して厳しいアルカリ性の薬品で処理する場合もあります。このため、低濃度まで確実に分析可能にするには、最終的な分析機器を高感度の機器に置き換えるだけでは不十分で、試料の分解方法も含め分析方法全体を再構築する必要があります。
4.おわりに
繰り返しになりますが、低い濃度の物質を正確に測定することは、単に高性能の分析装置を使えば実現できるわけではありません。試料の捕集方法、分解・溶解方法、測定装置の運転条件の全てについて実験を繰り返し、最適条件を見つけることが必要です。労働者の健康を守るためには、労働環境中の有害物質の測定方法の研究という終わりのない仕事を継続してゆく必要があります。
参考文献
- Criteria for a Recommended Standard: Occupational Exposure to Hexavalent Chromium, DHHS (NIOSH) Publication Number 2013-128, https://www.cdc.gov/niosh/docs/2013-128/default.html (外部サイトへ)
- ACGIH TLV (会員以外は有償で購入する必要がある) 2018版
- 鷹屋光俊,有害化学物質の測定・分析法【37】マンガンおよびその化合物, 作業環境 38(3) 49‐55.