労働安全衛生総合研究所

INDUSTRIAL HEALTH Vol.55, No.4の巻頭言"Construction – Is there a better way?"の和訳

 今回の巻頭言では,英国安全衛生庁の主席監督官のNic Rigby氏より,英国の「建設(設計・マネジメント)規則」等について解説していただきました。英国の「建設(設計・マネジメント)規則」は、発注者と設計者に責務を課すという大改革であったこと、1994年の制定以来、英国の建設工事の労働災害は5分の1になったこと、ロンドンオリンピックのための建設事業で死亡災害ゼロという成果につながったことなどが紹介されています。東京オリンピックを間近に控えた我が国もぜひ参考にしてよいでしょう。



建設業–取るべき道は–


 建設業界における死傷災害、疾病の件数を聞いて、受け入れることができる人はいるのだろうか–  イギリスがこの23年間の経験から学んだ大きな成功を、他の多くの地域では知らないように思える。何十年も同じやり方で仕事をしてきた、これからもやり方を変えないであろう建設業界の専門家たちを怒らせるのが怖いのだろうか、それとも将来の利益に繋がるということに、単に気づかないだけだろうか? 安全衛生に関する進展の遅さの理由は何であれ、現在、建設業における膨大な労働者の犠牲を、社会としてこれ以上見過ごすことができない段階にあり、すべての関係者が勝利へと続く道があることに、世界のいくつかの地域では気付き始めているようである。

 

 どうすれば可能なのか?


 世界のどこであれ、建設業と言えば劣悪な安全衛生環境の業種という認識があると思う。このことは単純な原因—教育の不足や労働者に対する指揮管理能力の低さのもとで、屋外で労働者を地上30メートルの高さでの仕事につかせたり、重機に近接した作業に従事させたりすることなどが原因である。労働安全衛生管理を整備せずにいることは、大きな労働災害を引き起こす要因であり、挑戦せずにいる、ということになる。

 多くの国では、建設現場におけるリスク、特に「身体」についてのリスクの問題に取り組むための施策がある。例えば、頭部を守るためにヘルメットの着用を義務化する法律を制定したり、クレーンを運転するために教育訓練を実施したり、足場の点検を実施したりなどである。もちろん、これらの事項は建設業に内在するいくつかのリスクに取組む際に必須である。しかし、これらの対策は、それのみではあまり大きな成果を得ることはできない。このような問題に限って限定的に取り組んでいる国々は、労働安全衛生成果が伸び悩み、成果を上げることが難しくなってきている。21世紀も17年を過ぎた今なお、そうした国の多くは、かつてイギリスがこの挑戦の旅を始めた場所に、取り残されたままと言える。

 イギリスにおける状況が好転し始めたのは1994年に「建設(設計・マネジメント)規則」が制定され、問題への取り組み方を全面的に変えたことに遡る。これにより、工事の過程においてきわめて重要な当事者二者に初めて法律により責務が義務化された—両者ともに長すぎる期間において「責任逃れ」をしていた、しかも建設プロジェクトにおける安全衛生管理の向上に大きな影響を与えることができる立場にいることを知っていながら。その影響力を持ちながら、この状況を黙認していた二者とは、発注者(又は開発業者)と設計に係わる全ての関係者だ。

 発注者(建設プロジェクトに対し資金を提供する側)の実に多くが従来の方法に従って建築物を調達する–機会を捉え、資金を調達し、図面を制作する設計者を決め、施工者に施工させる–それをできる限りの少ない資金で、できる限りの短期間で。結果は全く予想通りである。発注価格は下落の一途を辿り、結果として設計はひどいものとなり、費用は安く済むが、建設期間は短縮され、健康と安全はほとんど配慮されず(全くと言っていいほどに)、これらの結果として危機的な数の労働者が死傷した。

 このような発注者に依頼を受けた設計者は、自分たちが設計した建築物を作る役割りの施工者たちがどんな難題に直面するかを、たいていの場合、ほとんどまたは全くと言っていいほど知らない。多くの場合、彼らの唯一の関心事は建築物の出来ばえである。彼らが設計段階において、建設に携わる労働者たちが、仕事が終わり家族の待っている家へと帰ることができるかどうか、そのためには何ができるのか、は全く考えていなのである。たいていの場合、彼らの実際の施工過程についての知識は大変限られたものである。

 「建設(設計・マネジメント)規則」はイギリスにおけるそのような状況を根底から覆した。今や発注者は法律により建設計画に対し十分な資源(時間と資金)を提供しなければならず、施工者がプロジェクトに関連する安全衛生上のリスクに関して適切に管理ができるようにしなければならない。設計者に関しては、法律により工事の過程におけるリスクを実用的な範囲で排除しなければならず、排除できなかった重要な残存リスクの情報は漏れなく施工者に提供することが義務づけられている。

 さて、この「すばらしい」変化の結果はどうだったのだろうか? 新たに要求されている安全への配慮義務により、建設期間は長期化し、そのことが発注者を経済的に破綻させ、「建設(設計・マネジメント)規則」はイギリスの建設業界に建築学的に何の面白みもない箱物を作らせようとしているのだろうか? 今日のイギリスの主要都市でその都市の景観を眺めてみれば、そんなことはないとわかるだろう。例えば、ロンドンでは「ザ・シャード」が建てられている。もし発注者が「建設(設計・マネジメント)規則」により工事期間中の安全を確保しなければならず、それが経済的な足枷となり、その結果すべての独創性も革新も息絶えてしまうのならば、建てられた建築物がこんなに美しいことがあるだろうか?

 実際に、「建設(設計・マネジメント)規則」は、イギリスの建設業界を根本的により良い方向に変えることになった。今や発注者は、設計者や施工者により良い安全衛生の環境を提供するという投資の見返りに、より良い成果を求めることができ、このことが商業的にも道義的にも有益だということが分かってきた。その結果、将来に渡る建物のライフタイムメンテナンスも含めて、あらかじめ計画や予算に組み込まれたところの、専門的に優れた設計書に基づき、より良質な建物が建設されるのである。

 設計者にとっては、建設工事の施工過程から切り離された存在ではなく、完全に一体化されたものとなった。「私はこの建物を設計したが、実際にどうやって建てるかは、他人の問題だ」という自己中心的な古い考え方は姿を消した。設計分野では、設計者の施工性に関する問題点に対してのプロ意識と知識は大きく向上し、設計の早い段階から安全衛生に関して考察することが重要だということが、業界全体で理解され始めている。それによって、従来、設計図を前にして、どうやったら安全に建てることができるのかと、施工者が頭をかきむしっていた多くの問題点が無くなった。当然だが、設計段階で施工過程でのリスクを完全に排除できるのなら、施工者が現場で行う残留リスク管理はずっと楽になるだろう。その結果は、もちろん、より多くの労働者たちが、仕事が終わり家族の待つ家へと帰ることができるというものである。

 1994年から始まったイギリスにおける「建設(設計・マネジメント)規則」での成功は都市の景観が魅力的だということだけでは測れない。例えば、2012年のロンドンオリンピックに向けての建設工事とインフラ整備が融合した大型複合建設(Big Build)において、発注者と設計チームは「建設(設計・マネジメント)規則」を確実に遵守したうえで、何ができるのかを証明してみせた。

 オリンピックのための建設事業(Big Build)は巨大な建設プロジェクトだった、建設工事従事者は46,000人を超え、オリンピックメインスタジアムを含む5つの常設会場、11区画の宿泊棟の建設に加えて橋、鉄道、道路のインフラ整備、その他このような大規模なイベントに付随する全ての建設工事が、世界で最も混雑する活気のある首都の中心地近く、かつては重度の土壌汚染のあった現場で成し遂げられたのだ。安全衛生管理に対するコミットメントとその遵守の考え方は、発注者から直接現場で働くことになる労働者まで全ての関係者に共有され、施工過程でのリスクは以前なかったほどの段階まで排除され、健康と安全に関する取り組みでの成功はイギリス国内のみならず世界中で、新しい、あるべきベンチマークとなった。

 オリンピック関連の建設を始める時、どうしても避けられない事は、納期が決まっているということだ。決まった期日に聖火ランナーが燃え盛る聖火を持ってスタジアムに走ってくるわけであるし、世界中の人々が見守る中、スタジアムは見栄え良く完成していた方がいいのである。2012年ロンドンにて、世界中の目がしっかりと注がれる中、その偉業は成し遂げられた。8千万時間を超える工事期間中、1件の死亡災害も起こさなかったのである。ただの1件も! それは過去のオリンピック建設工事史上、最も安全な建設工事であった。そしてもちろん燃え盛る聖火の入場にきっちり間に合ったのである。これらの偉業は偶然がもたらしたものではない。

 「建設(設計・マネジメント)規則」への取り組みは、重要な二者(発注者と設計者)の大きな影響力によるものであるが、世界の多くの地域で未だにこの状況を改善したいと思わないのか、または出来ないのか、挑戦をためらっているように見える。ここイギリスで私たちは挑戦を実行に移したが、私が自身の経験から知る限り、この旅路のどのステップも容易なものではなかった。しかしながら、業界全体と私たち行政機関としての英国安全衛生庁を含むこの23年間に及ぶ努力の結果、「建設(設計・マネジメント)規則」への取り組みが好結果を生むことがわかった。それはオリンピックという大きなランドマーク事業の成功ばかりでなく、その他の様々な実績によるものでもある。

 今日、イギリスの建設業における安全衛生の実績を国際的に比較した時、イギリスのそれは、ひときわ高い水準にある、「建設(設計・マネジメント)規則」制定当初と今日を比較すると5倍以上の進歩である。業界全体の死亡者数は年間100,000人あたり2人弱だ。しかしながら、私たちはこれで満足した訳ではない。さらに改善することができるし、その改善した先が私たちのゴール地点であり、絶え間ない努力の目標地点である。また、英国安全衛生庁は、近年「建設(設計・マネジメント)規則」への取り組みからの経験を共有し伝えることで世界中の政府機関への援助を行っている。建設業において、これ以上の死傷者を出すこの現状を見過ごすわけにはいかないことに、世界は気が付き始めたのである。そして、社会はもはやこの死傷者数が標準値だと、受け入れることは出来ないのだ。

 ここイギリスでの「建設(設計・マネジメント)規則」への取り組みの旅は、今日、他の多くの国の建設業界が思い悩んでいるところの、良好とは言えない状態からのスタートだった。私たちの経験から学んでいただき、私たちが楽しみつつ進めた安全衛生環境を向上させるための取り組みをスタートさせるのは賢明な選択肢となるだろう。

 結論として、冒頭での私の質問に対する答えは「ノー」である、建設業において、これほど多くの死傷者を出すことは決して受け入れられない。そこには選択すべき道がある、「建設(設計・マネジメント)規則」という道が。

Nic RIGBY
HM Principal Inspector, International Unit
英国安全衛生研究所

注:執筆者 Nic Rigby はイギリスの職場における安全衛生についての行政機関である英国安全衛生庁に所属するHM Principal Inspectorである。彼は英国安全衛生庁に29年間在籍しており、そのほとんどの期間を建設業に特化した業務に携わっている。近年、彼は極東地域における英国安全衛生庁の活動をけん引し、特に各国の建設業分野における安全衛生管理の向上のために政府機関への援助に尽力している。




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