行動分析学との遭遇(4)
今回で「行動分析との遭遇」シリーズも最終回です。今回は、現在私が行っている研究内容をお話しいたします。
先々号のコラム『行動分析学との遭遇(2)』では、私が脳と行動の関係、化学物質が胎児・新生児に及ぼす影響をどうしても知りたくなり、渡米を決意するまでをお話しいたしました。今回は、アメリカで学び、現在に至るまで行っている、私の動物実験の内容をお知らせします。
いよいよ米国ニューヨーク州ロチェスターでの研究生活がスタートしました。今から私にとって少しの間「特別で華やかな人生」が始まると思っていました。ところが、実際には「職場と自宅との往復の連続の中にちょっとした趣味の時間が存在する」という、日本で過ごしていた地味めの生活と全く変わることのないものでした。それはそれで私にとって満足な日常でしたが、ひとつだけ今まで見ていた景色が変わったといっても過言でない位大きな変化がありました(もちろん日本とアメリカの景色が異なる、という単純な意味ではありません)。これまで動物実験というと“ハト”であった私の研究生活に“ネズミたち”が加わったのです。アメリカまで行って変わったことがそこか!と、よく呆れられますが、動物の行動分析を行う上で、それはとても重要な意味を持つことなのです。
アメリカに到着した翌日に大学に赴き、身分についての説明を受けました。日本では大学院生でしたが、ここでは博士論文のデータを取りに来たvisiting scientist(訪問研究員)として、ロチェスター大学医学部環境毒性学科のB. Weiss教授のもとでスタッフとして働き始めました。私が聞いていた噂では、生活の立ち上げに約2週間の猶予があり、その後おもむろに研究生活に入るとのことでしたが、予期せぬことに「明日は何時に来られる?」と尋ねられ驚きました。後に分かった事ですが、どこから給与が出ているかでスタッフの待遇が違ってくるようです。私の場合は直接大学から(正しくは指導教授から)支出される給与のため、否応なく採用日から働いてもらう、ということのようでした。翌朝に研究室に行くと、私のためのプロジェクトが既に用意されており、早速説明を受けました。その後「地下の動物舎に行き、あなたのラットの体重を測ってきて」と言われました。
それほど深く考えずに動物舎に向かい、ラットの飼育ケージを覗いて初めて途方にくれました。それまでラットには触ったことがなく、どこをどのように持てばいいのかが分からなかったからです。尻尾が一番持ちやすいと見当を付けましたが、今度は噛みつかれる恐怖が私を襲い、どうしても手を出すことができませんでした。教科書で見た写真は注射などの処置をするときの拘束法であり、その状態に持ち込むまでのラットの持ち方については何ら述べられていませんでした。こちらが緊張していると、ラットも警戒します。何とか捕まえられないかとラットのケージのいろいろな方向から手を出そうとするのですが、ラットも何とか捕まるまいとこちらの動きに合わせてぐるぐる回るのです。とうとう3時間以上ラットとにらみ合うことになってしまいました。その時、あまりの遅さに心配して様子を見に来てくれたスタッフに、ようやく状況を告げることができました。情けないことですが、仕方がありません。その日は彼(=スタッフ)に手伝ってもらい、80匹あまりの体重測定を終了しました。
その後、彼は私を外に連れ出し、ワークマンショップ(作業者向けの用品店)のようなところで丈夫な手袋を2種類買ってくれました。この手袋は本当に丈夫で、ラットが思い切り私に噛みついても文字どおりまったく歯が立たない状態でした。おかげですっかり恐怖心も薄れ、それからは難なくラットに触れることが出来るようになりました。しかしながら、1週間もすると、ラットがやみくもに噛みつくような獰猛な動物ではないことや、考えていた以上に賢く、また人懐っこい動物だということがわかってきました。そして、次の週からは私は厚手の手袋をはめることをやめました。
ラットやマウスはよく実験に使われますが、それまで私はハトしか使ったことがありませんでした。行動実験では、目的に合わせて使用する動物を選びます。ハトを実験に使っていたのは、鳥類は視覚機能が優れており、色の識別ができるという理由からです。行動分析では、かなり複雑なことまで動物にやらせます。クイズを何種類も出し、動物に答えさせるイメージです。ハトには写真1のように壁に光るキー(ボタン)を設け、ハトはそれをつつくことでクイズに答えるのです。キーの裏側には様々な色の電球が用意されていて、赤い光の場合は反応(キーつつき)を高頻度で、緑の場合は低頻度でゆっくりつつく、という様にクイズによって色を交替させることができます。しかしながら、ハトと違いラットやマウスのようなげっ歯類は視覚機能にはあまり恵まれているとはいえません。というのも、視覚機能をつかさどる視細胞には「桿体細胞」と「錐体細胞」の2種類があり「桿体細胞」は光に対する感度が高く、「錐体細胞」は色の違いの区別が可能という特徴がありますが、ラットやマウスには「桿体細胞」のみが存在しており「錐体細胞」がないからです(つまり、ラットやマウスはモノクロの世界で生きています)。そのため、色のついたものを試験に使うことができません。ハトでキーに相当するものが、ラットやマウスではレバーになります。写真2のようにレバーを押すことでクイズに答えるというわけです。
写真1. ハトと試験用キー
写真2. マウスと試験用レバー
今回のコラムの冒頭で、アメリカでの大きな変化として、ネズミたちとの出会いを挙げました。実は、ラットがレバーを押すところを目にしたときに、まさに周囲が以前とは変わって見えるほどの衝撃を受けたのです。ハトがキーをくちばしでつつく場合と違って、ラットが手を使ってレバーを押す姿はヒトでの行動を彷彿とさせます。うまくは言えませんが、「行動の型(トポグラフィー)」が類似していたため、ハトよりネズミたちをヒトに当てはめやすいと感じたのかもしれません。その時、私は確かに「ヒトの行動」を研究していることを改めて実感し、動物の行動ではなく「ヒト」の行動を知りたいと思っていることを、明確に意識した瞬間でもありました。
Weiss研究室には大規模な行動試験設備が整っており、ラットの実験箱が5台収容できる防音箱がありました。ちょうど家庭用の冷蔵庫より少し背が高いぐらいの大きさです。ラットを入れても、人間が一人入る程度の隙間がありました。私はそこに入り込み、「ラットが全く経験のないレバー押しをマスターするまで*」の様子を実際に観察することにしました。最初は動こうとさえしなかったラットが、本来レバー押しの報酬として用意されている小さなエサ粒欲しさにエサ箱にだんだん近づいていき、はじめは偶然にレバーに触りエサ粒を獲得し、そして徐々に「レバーを押すとエサ粒が落ちてくる」という関係性を学習していく様子は圧巻でした。また、実験箱内の音に怯えるラットが勇気を持って行動を開始したものの、期待していたとおり(=エサが貰える)にならないと「あれ?」と不思議がっているように見え、自分にはそれが人間そっくりに思えました。実際のラットにはそのような表情はありませんので、おそらく私の思いこみだったのでしょう。しかしこの過程を見ていなかったら、ヒトのための実験を行っているという実感はそれほど湧かなかったと思います。目で見て自分で体験することは大事なことですね。それからは毎日好んで防音箱の中に入り込んで実験の様子を眺めるという日課が続きました。Weiss研究室では、毎日嬉々としてラットの防音箱に入っていく変な日本人を雇ってしまったと後悔したかもしれません。
*この過程を反応形成といいます。通常は訓練の中で手動あるいは自動で動物に教えていきます。Weiss研究室ではパソコンで自動制御していました。
大学で行動分析を学んで以来、常々様々な日常行動を分解し、頭の中で行動分析の理論に載せることを繰り返していました。このような一連の流れは、言語により形成された行動(このように行動しなさいと指示がある状況;rule-governed behavior、ルール支配行動)と、言語によらずに形成された行動(試行錯誤により自分で行動を形成していく状況;contingency-shaped behavior、随伴性形成行動)が、見た目には同じでも性質が異なるかどうかを検討することが卒論のテーマであったため、自然に身についたことでした。また、日本の大学院での私の指導教授である小野浩一教授の研究テーマが「迷信行動」でした。迷信行動も行動分析学的に説明可能なことに驚くとともに、その他の行動もすべて行動分析の原理で可能なのかが気になり始めてしまったのです。
迷信行動とは、「道理に合わない言い伝えなどをかたくなに信じること」と辞書にあります。「新しい靴を午後に下ろすと不幸になる」、「このお守りは幸運を運んでくる」、「赤い服で外出した日は雨になる」など、多くの場合迷信は「○○すると××が起こる」といった、ヒトの行動とその結果との関係を表すものです。行動が実際は結果とほとんど関係がないとき、迷信というのです。結果の前の偶然の行動が迷信行動なのです。
驚くことに、動物でも迷信行動は起きるのです。行動分析学の創始者であるB. F. Skinner教授によって、1948年にハトの実験として迷信行動が紹介されました。空腹のハトを実験箱に入れ、ハトの行動に関係なくある時間間隔でエサを与えると、エサが出る直前の行動、例えば頭を上げる、実験箱内を一周する、などが繰り返し観察されました。Skinner教授の実験は、迷信行動を行動分析学的試験法で作ることができるということを示したものとも言えます。
このような考え方を大学院の指導教授から学んだせいか、今なぜその人がその行動をしているのか、何が合図となってその行動をしているのか、あるいはどうしてこの行動が維持されているのか、といったことをいつも考え続け、いつのまにか習慣となっていました。身体に良くないとわかっているタバコやお酒を摂り続けるのはなぜだろう?、怒られるとわかっていてなぜ子供は同じことを繰り返すのだろう?、いつまでたっても疑問に思うことは尽きず、これが永遠に繰り返されるように感じていましたが、Weiss研究室ではこれとは逆の発想で実験が行われていたのです。Weiss研究室では、行動分析学を化学物質の影響を見るための指標、つまり道具として使用していました。身体に悪影響を与える物質を投与し、行動試験によってその影響を調べる研究領域は「行動毒性学」と呼ばれ、Skinner教授の行動分析学をもとにWeiss教授が初めて確立した分野です。私がいた当時は、妊娠ラットに、当時大問題だった内分泌かく乱物質「ダイオキシン」を投与し、生まれた赤ちゃんラットが大人になった時のレバー押しの行動試験を行っていました。つまり、ダイオキシンが投与されると、正常な動物ではできたクイズができなくなるのか、あるいは特に変化がないかを調べていたのです。幸運なことに、私の前職である助産師の知識がこの研究室では大いに役立ちました。ラットの妊娠経過はヒトと似ているとはいえませんが大まかにはイメージでき、また産科関連の専門用語を英語で知っていたことからプロジェクト内容の説明が理解しやすかったのです。ここで、バラバラだった助産学と行動分析学と行動毒性学の思わぬ融合が果たされました。今まで周り道をしたと感じてきた自分の人生が、何となく得した人生と思えるようになりました。いい加減なものですね。
Weiss研究室在籍中は、行動毒性試験を行うと同時に、Weiss教授の共同研究者である病理組織学者の講義も受け始めました。正直言って、仕事の後に英語で専門以外の分野の講義を受けるのはしんどい以外の何物でもありませんでした。しかし、行動毒性試験をやればやるほど、行動に表れた変化が脳のどの部分でどのように変化して起きているのかを知りたくなるのです。結局、最後まで講義を受け、病理組織切片の作り方をテクニシャンの人から教えてもらい、一通り学ぶことができました。これは自分なりに充実した時間でした。
そんな充実した研究時間とは対照的に、アメリカでの日常はといえば、ほとんど旅行にも行かず、遠出は学会参加のみ(ネズミたちがいるので矢のように早く帰還)、休日は近所で次の週の食料品の買い出しをする程度のつまらない生活(とよくラボの人に言われていました)でした。ロチェスター市にはフィルムのKodak社の創始者である、G. Eastman氏の自宅があり、自宅が私設映画館として開放され、ほぼ毎晩映画が上映されていました。そこにはハリウッド映画のような華やかさはありませんでしたが、北欧や中近東、そして黒澤映画など凝った趣味の上映がありました。そのことを知ってから講義が終了するとほぼ毎日私設映画館に行くようになりました。つまらない生活(実際は自分ではそう思っていませんでしたが)にも趣味の時間がもたらされたのです。講義中は「もう限界だ、英語わからないし、悲しい…」と心の中で叫び続けているのに、映画では全く苦痛は感じませんでした。本当にいい加減なものです。そのうちに友人も加わり、毎晩映画に数人で繰り出す一見マニアックな生活がアメリカにいる間中続けられました。
アメリカ生活も3年ほどたった頃、ある出会いがありました。この人物の登場で私の様々なものに対する考え方が変わりました。と言っても、別にロマンチックな出会いではなく、一般企業相手にコンサルタント会社を経営している行動分析家です。学会で私のポスターに興味を持った彼が、色々と質問をしてきたことで知り合いになりました。私も職場での行動分析に興味があったため、彼がその方面の仕事をしていると知ると質問攻めにしました。結局時間切れになり、住んでいるところも近かったのでその後何度か会い、彼がどのような手法を使ってコンサルタント業を営んでいるかを聞きました。話してくれた内容は非常に興味深く、参考になる話が沢山ありましたが、何よりも彼の持つ行動分析に対する専門家としてのプライドと責任感の強さ、より高く技術や知識を磨いて行こうという向上心に非常に感銘を受けました。ある日、彼のオフィスに招かれ2人いる社員を紹介されたところで、彼の顧客候補者が訪ねてきました。そこで、その時のやり取りを偶然スクリーン越しに聴く機会がありました。
その時彼は顧客を相手に、「自分の持っている専門知識は信頼できるもので、高いレベルと豊富な自分の経験があなたの会社での成功を保証します」と言っていました。誤解しないでいただきたいのですが、彼は決して傲慢で不遜な人ではありません。できないことや、やったことのないことをできると大口を叩く人でもありませんし、これだけがんばっていると主張する自意識過剰な人でもありません。続けて出てきた話は次のようなものでした。「社員のストレスがなくなるように植物を置いたり、音楽を流したり、あるいは家具の配置を変えてみたりしている会社がある。でもそのストレスは、社員が作り出した可能性が高い、それならば社員の行動を改善する方が確実です。同じ額のお金を支払うなら確実に成果が見えるやり方が良いですよ。」そして、彼の成果はすべて数字により一目でわかるようになっていました。もしも私が顧客なら、彼にお金を払うだろうと思いました。
彼の職業上の信条の一つは「正しく情報を伝える」ことでした。日本ではできることを「いやいやそれほどでもないですよ」と言い、身内は原則褒めないのが美徳であると考えているように思います。「それを日本では謙遜というのだけど」と彼に話すと、「できるのにできないということは、できないのにできるという嘘と同じじゃないの?」「誰も身内のことは大好きなのに、同じエネルギーを使ってなぜわざわざ反対のことを言うの?」と不思議がられ「正直に言えばいいんじゃないの?」と言われてしまいました。なるほど考えてみればそうだなと思いました。私も彼のように自分の学問に対し、正しいプライドを持って行こうと感じ始めました。それと当時に、謙遜という文化は別として、日本人であることにも正しいプライドを持つ努力をしようと思い始めました。
こうして4年弱のアメリカ生活が過ぎて行きました。
先々号のコラム『行動分析学との遭遇(2)』では、私が脳と行動の関係、化学物質が胎児・新生児に及ぼす影響をどうしても知りたくなり、渡米を決意するまでをお話しいたしました。今回は、アメリカで学び、現在に至るまで行っている、私の動物実験の内容をお知らせします。
アメリカでの生活
いよいよ米国ニューヨーク州ロチェスターでの研究生活がスタートしました。今から私にとって少しの間「特別で華やかな人生」が始まると思っていました。ところが、実際には「職場と自宅との往復の連続の中にちょっとした趣味の時間が存在する」という、日本で過ごしていた地味めの生活と全く変わることのないものでした。それはそれで私にとって満足な日常でしたが、ひとつだけ今まで見ていた景色が変わったといっても過言でない位大きな変化がありました(もちろん日本とアメリカの景色が異なる、という単純な意味ではありません)。これまで動物実験というと“ハト”であった私の研究生活に“ネズミたち”が加わったのです。アメリカまで行って変わったことがそこか!と、よく呆れられますが、動物の行動分析を行う上で、それはとても重要な意味を持つことなのです。
ラットとの遭遇
アメリカに到着した翌日に大学に赴き、身分についての説明を受けました。日本では大学院生でしたが、ここでは博士論文のデータを取りに来たvisiting scientist(訪問研究員)として、ロチェスター大学医学部環境毒性学科のB. Weiss教授のもとでスタッフとして働き始めました。私が聞いていた噂では、生活の立ち上げに約2週間の猶予があり、その後おもむろに研究生活に入るとのことでしたが、予期せぬことに「明日は何時に来られる?」と尋ねられ驚きました。後に分かった事ですが、どこから給与が出ているかでスタッフの待遇が違ってくるようです。私の場合は直接大学から(正しくは指導教授から)支出される給与のため、否応なく採用日から働いてもらう、ということのようでした。翌朝に研究室に行くと、私のためのプロジェクトが既に用意されており、早速説明を受けました。その後「地下の動物舎に行き、あなたのラットの体重を測ってきて」と言われました。
それほど深く考えずに動物舎に向かい、ラットの飼育ケージを覗いて初めて途方にくれました。それまでラットには触ったことがなく、どこをどのように持てばいいのかが分からなかったからです。尻尾が一番持ちやすいと見当を付けましたが、今度は噛みつかれる恐怖が私を襲い、どうしても手を出すことができませんでした。教科書で見た写真は注射などの処置をするときの拘束法であり、その状態に持ち込むまでのラットの持ち方については何ら述べられていませんでした。こちらが緊張していると、ラットも警戒します。何とか捕まえられないかとラットのケージのいろいろな方向から手を出そうとするのですが、ラットも何とか捕まるまいとこちらの動きに合わせてぐるぐる回るのです。とうとう3時間以上ラットとにらみ合うことになってしまいました。その時、あまりの遅さに心配して様子を見に来てくれたスタッフに、ようやく状況を告げることができました。情けないことですが、仕方がありません。その日は彼(=スタッフ)に手伝ってもらい、80匹あまりの体重測定を終了しました。
その後、彼は私を外に連れ出し、ワークマンショップ(作業者向けの用品店)のようなところで丈夫な手袋を2種類買ってくれました。この手袋は本当に丈夫で、ラットが思い切り私に噛みついても文字どおりまったく歯が立たない状態でした。おかげですっかり恐怖心も薄れ、それからは難なくラットに触れることが出来るようになりました。しかしながら、1週間もすると、ラットがやみくもに噛みつくような獰猛な動物ではないことや、考えていた以上に賢く、また人懐っこい動物だということがわかってきました。そして、次の週からは私は厚手の手袋をはめることをやめました。
行動試験に使われる動物たち
ラットやマウスはよく実験に使われますが、それまで私はハトしか使ったことがありませんでした。行動実験では、目的に合わせて使用する動物を選びます。ハトを実験に使っていたのは、鳥類は視覚機能が優れており、色の識別ができるという理由からです。行動分析では、かなり複雑なことまで動物にやらせます。クイズを何種類も出し、動物に答えさせるイメージです。ハトには写真1のように壁に光るキー(ボタン)を設け、ハトはそれをつつくことでクイズに答えるのです。キーの裏側には様々な色の電球が用意されていて、赤い光の場合は反応(キーつつき)を高頻度で、緑の場合は低頻度でゆっくりつつく、という様にクイズによって色を交替させることができます。しかしながら、ハトと違いラットやマウスのようなげっ歯類は視覚機能にはあまり恵まれているとはいえません。というのも、視覚機能をつかさどる視細胞には「桿体細胞」と「錐体細胞」の2種類があり「桿体細胞」は光に対する感度が高く、「錐体細胞」は色の違いの区別が可能という特徴がありますが、ラットやマウスには「桿体細胞」のみが存在しており「錐体細胞」がないからです(つまり、ラットやマウスはモノクロの世界で生きています)。そのため、色のついたものを試験に使うことができません。ハトでキーに相当するものが、ラットやマウスではレバーになります。写真2のようにレバーを押すことでクイズに答えるというわけです。
写真1. ハトと試験用キー
写真2. マウスと試験用レバー
今回のコラムの冒頭で、アメリカでの大きな変化として、ネズミたちとの出会いを挙げました。実は、ラットがレバーを押すところを目にしたときに、まさに周囲が以前とは変わって見えるほどの衝撃を受けたのです。ハトがキーをくちばしでつつく場合と違って、ラットが手を使ってレバーを押す姿はヒトでの行動を彷彿とさせます。うまくは言えませんが、「行動の型(トポグラフィー)」が類似していたため、ハトよりネズミたちをヒトに当てはめやすいと感じたのかもしれません。その時、私は確かに「ヒトの行動」を研究していることを改めて実感し、動物の行動ではなく「ヒト」の行動を知りたいと思っていることを、明確に意識した瞬間でもありました。
Weiss研究室には大規模な行動試験設備が整っており、ラットの実験箱が5台収容できる防音箱がありました。ちょうど家庭用の冷蔵庫より少し背が高いぐらいの大きさです。ラットを入れても、人間が一人入る程度の隙間がありました。私はそこに入り込み、「ラットが全く経験のないレバー押しをマスターするまで*」の様子を実際に観察することにしました。最初は動こうとさえしなかったラットが、本来レバー押しの報酬として用意されている小さなエサ粒欲しさにエサ箱にだんだん近づいていき、はじめは偶然にレバーに触りエサ粒を獲得し、そして徐々に「レバーを押すとエサ粒が落ちてくる」という関係性を学習していく様子は圧巻でした。また、実験箱内の音に怯えるラットが勇気を持って行動を開始したものの、期待していたとおり(=エサが貰える)にならないと「あれ?」と不思議がっているように見え、自分にはそれが人間そっくりに思えました。実際のラットにはそのような表情はありませんので、おそらく私の思いこみだったのでしょう。しかしこの過程を見ていなかったら、ヒトのための実験を行っているという実感はそれほど湧かなかったと思います。目で見て自分で体験することは大事なことですね。それからは毎日好んで防音箱の中に入り込んで実験の様子を眺めるという日課が続きました。Weiss研究室では、毎日嬉々としてラットの防音箱に入っていく変な日本人を雇ってしまったと後悔したかもしれません。
*この過程を反応形成といいます。通常は訓練の中で手動あるいは自動で動物に教えていきます。Weiss研究室ではパソコンで自動制御していました。
行動の法則の探索から指標としての行動変化の探索へ
大学で行動分析を学んで以来、常々様々な日常行動を分解し、頭の中で行動分析の理論に載せることを繰り返していました。このような一連の流れは、言語により形成された行動(このように行動しなさいと指示がある状況;rule-governed behavior、ルール支配行動)と、言語によらずに形成された行動(試行錯誤により自分で行動を形成していく状況;contingency-shaped behavior、随伴性形成行動)が、見た目には同じでも性質が異なるかどうかを検討することが卒論のテーマであったため、自然に身についたことでした。また、日本の大学院での私の指導教授である小野浩一教授の研究テーマが「迷信行動」でした。迷信行動も行動分析学的に説明可能なことに驚くとともに、その他の行動もすべて行動分析の原理で可能なのかが気になり始めてしまったのです。
迷信行動とは、「道理に合わない言い伝えなどをかたくなに信じること」と辞書にあります。「新しい靴を午後に下ろすと不幸になる」、「このお守りは幸運を運んでくる」、「赤い服で外出した日は雨になる」など、多くの場合迷信は「○○すると××が起こる」といった、ヒトの行動とその結果との関係を表すものです。行動が実際は結果とほとんど関係がないとき、迷信というのです。結果の前の偶然の行動が迷信行動なのです。
驚くことに、動物でも迷信行動は起きるのです。行動分析学の創始者であるB. F. Skinner教授によって、1948年にハトの実験として迷信行動が紹介されました。空腹のハトを実験箱に入れ、ハトの行動に関係なくある時間間隔でエサを与えると、エサが出る直前の行動、例えば頭を上げる、実験箱内を一周する、などが繰り返し観察されました。Skinner教授の実験は、迷信行動を行動分析学的試験法で作ることができるということを示したものとも言えます。
このような考え方を大学院の指導教授から学んだせいか、今なぜその人がその行動をしているのか、何が合図となってその行動をしているのか、あるいはどうしてこの行動が維持されているのか、といったことをいつも考え続け、いつのまにか習慣となっていました。身体に良くないとわかっているタバコやお酒を摂り続けるのはなぜだろう?、怒られるとわかっていてなぜ子供は同じことを繰り返すのだろう?、いつまでたっても疑問に思うことは尽きず、これが永遠に繰り返されるように感じていましたが、Weiss研究室ではこれとは逆の発想で実験が行われていたのです。Weiss研究室では、行動分析学を化学物質の影響を見るための指標、つまり道具として使用していました。身体に悪影響を与える物質を投与し、行動試験によってその影響を調べる研究領域は「行動毒性学」と呼ばれ、Skinner教授の行動分析学をもとにWeiss教授が初めて確立した分野です。私がいた当時は、妊娠ラットに、当時大問題だった内分泌かく乱物質「ダイオキシン」を投与し、生まれた赤ちゃんラットが大人になった時のレバー押しの行動試験を行っていました。つまり、ダイオキシンが投与されると、正常な動物ではできたクイズができなくなるのか、あるいは特に変化がないかを調べていたのです。幸運なことに、私の前職である助産師の知識がこの研究室では大いに役立ちました。ラットの妊娠経過はヒトと似ているとはいえませんが大まかにはイメージでき、また産科関連の専門用語を英語で知っていたことからプロジェクト内容の説明が理解しやすかったのです。ここで、バラバラだった助産学と行動分析学と行動毒性学の思わぬ融合が果たされました。今まで周り道をしたと感じてきた自分の人生が、何となく得した人生と思えるようになりました。いい加減なものですね。
Weiss研究室在籍中は、行動毒性試験を行うと同時に、Weiss教授の共同研究者である病理組織学者の講義も受け始めました。正直言って、仕事の後に英語で専門以外の分野の講義を受けるのはしんどい以外の何物でもありませんでした。しかし、行動毒性試験をやればやるほど、行動に表れた変化が脳のどの部分でどのように変化して起きているのかを知りたくなるのです。結局、最後まで講義を受け、病理組織切片の作り方をテクニシャンの人から教えてもらい、一通り学ぶことができました。これは自分なりに充実した時間でした。
そんな充実した研究時間とは対照的に、アメリカでの日常はといえば、ほとんど旅行にも行かず、遠出は学会参加のみ(ネズミたちがいるので矢のように早く帰還)、休日は近所で次の週の食料品の買い出しをする程度のつまらない生活(とよくラボの人に言われていました)でした。ロチェスター市にはフィルムのKodak社の創始者である、G. Eastman氏の自宅があり、自宅が私設映画館として開放され、ほぼ毎晩映画が上映されていました。そこにはハリウッド映画のような華やかさはありませんでしたが、北欧や中近東、そして黒澤映画など凝った趣味の上映がありました。そのことを知ってから講義が終了するとほぼ毎日私設映画館に行くようになりました。つまらない生活(実際は自分ではそう思っていませんでしたが)にも趣味の時間がもたらされたのです。講義中は「もう限界だ、英語わからないし、悲しい…」と心の中で叫び続けているのに、映画では全く苦痛は感じませんでした。本当にいい加減なものです。そのうちに友人も加わり、毎晩映画に数人で繰り出す一見マニアックな生活がアメリカにいる間中続けられました。
専門家としてのプライドを教えてくれた人
アメリカ生活も3年ほどたった頃、ある出会いがありました。この人物の登場で私の様々なものに対する考え方が変わりました。と言っても、別にロマンチックな出会いではなく、一般企業相手にコンサルタント会社を経営している行動分析家です。学会で私のポスターに興味を持った彼が、色々と質問をしてきたことで知り合いになりました。私も職場での行動分析に興味があったため、彼がその方面の仕事をしていると知ると質問攻めにしました。結局時間切れになり、住んでいるところも近かったのでその後何度か会い、彼がどのような手法を使ってコンサルタント業を営んでいるかを聞きました。話してくれた内容は非常に興味深く、参考になる話が沢山ありましたが、何よりも彼の持つ行動分析に対する専門家としてのプライドと責任感の強さ、より高く技術や知識を磨いて行こうという向上心に非常に感銘を受けました。ある日、彼のオフィスに招かれ2人いる社員を紹介されたところで、彼の顧客候補者が訪ねてきました。そこで、その時のやり取りを偶然スクリーン越しに聴く機会がありました。
その時彼は顧客を相手に、「自分の持っている専門知識は信頼できるもので、高いレベルと豊富な自分の経験があなたの会社での成功を保証します」と言っていました。誤解しないでいただきたいのですが、彼は決して傲慢で不遜な人ではありません。できないことや、やったことのないことをできると大口を叩く人でもありませんし、これだけがんばっていると主張する自意識過剰な人でもありません。続けて出てきた話は次のようなものでした。「社員のストレスがなくなるように植物を置いたり、音楽を流したり、あるいは家具の配置を変えてみたりしている会社がある。でもそのストレスは、社員が作り出した可能性が高い、それならば社員の行動を改善する方が確実です。同じ額のお金を支払うなら確実に成果が見えるやり方が良いですよ。」そして、彼の成果はすべて数字により一目でわかるようになっていました。もしも私が顧客なら、彼にお金を払うだろうと思いました。
彼の職業上の信条の一つは「正しく情報を伝える」ことでした。日本ではできることを「いやいやそれほどでもないですよ」と言い、身内は原則褒めないのが美徳であると考えているように思います。「それを日本では謙遜というのだけど」と彼に話すと、「できるのにできないということは、できないのにできるという嘘と同じじゃないの?」「誰も身内のことは大好きなのに、同じエネルギーを使ってなぜわざわざ反対のことを言うの?」と不思議がられ「正直に言えばいいんじゃないの?」と言われてしまいました。なるほど考えてみればそうだなと思いました。私も彼のように自分の学問に対し、正しいプライドを持って行こうと感じ始めました。それと当時に、謙遜という文化は別として、日本人であることにも正しいプライドを持つ努力をしようと思い始めました。
こうして4年弱のアメリカ生活が過ぎて行きました。
(健康障害予防研究グループ 任期付研究員 北條理恵子)