リスクと健康診断~職域健康モニタリングのターニングポイント
職域では、労働者やその組織の健康状態を把握するための様々なモニタリング(以下、「健康モニタリング」という。)が実施されています。これらの健康モニタリングには、その導入時の時代背景を反映したターニングポイントとしての意義がありました。今般あらたに「リスクアセスメント対象物健康診断」が導入されることを期に、本稿では平成以降の職域健康影響モニタリングのターニングポイントを改めて振り返ります。
1)平成元年:一般定期健康診断項目と特殊健康診断項目の追加
この年に、一般定期健康診断に「貧血検査」「肝機能検査」「血中脂質検査」「心電図検査」が追加されました。その理由について、当時の記載では「高齢化社会の進展に伴う成人病の増加等疾病構造の変化に対応するとともに、疾病の発見のみならず、その発生予防にも重点を置いた健康診断とするため(出典:中災防「労働衛生のしおり」平成元年版)」と書かれています。当時はまだ「リスク」という表記はされていませんが、成人病(のちの生活習慣病)を産業界におけるリスク要因と捉えたこのターニングポイントは、その後の「健康診断結果に基づき事業者が講ずべき措置に関する指針(事後措置指針、平成8年)」、また過重労働対策における作業者側の健康状態(脳・心臓疾患の発症リスク)の要因評価等、予見可能性に基づく安全配慮義務の概念を考慮にいれた評価手段として引き継がれていきます。
またこの年、「高濃度ばく露の環境から低濃度長期ばく露の環境に変わったことを踏まえ(出典:同上)」、有機溶剤中毒予防規則および鉛中毒予防規則に生物学的モニタリング(有機溶剤の尿中代謝物、血中鉛濃度等の測定)が導入され、より早期にばく露や影響を把握するための二次予防としての精度向上が図られました。このことはその後、平成20年代以降の特定化学物質障害予防規則の改正に際しての礎となりました。
2)平成14年:VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン
このガイドラインでは、6種類の業務内容と3段階の作業時間の掛け合わせにより「作業区分A~C」が設定され、その区分に応じて管理対応に濃淡をつける方針が設定されました。このことは労働衛生におけるリスクアセスメントの先駆けでもあり、マトリクス法によるこのアセスメント方法は、現在では化学物質管理のみならず熱中症のリスクアセスメント等にも採用されています。
3)平成27年:心理的な負担の程度を把握するための検査(ストレスチェック)
ストレスチェック制度では、それまであまり触れることが出来なかった「ストレス反応」および「その背景要因」に関する情報の収集を、法令で求めた点で画期的な取組となりました。その中でも特に、
- 疾病そのものではなく、その早期健康影響指標でもある「ストレス反応」を調査の対象としたこと
- 「労働者個人の評価」に留まらず「事業場・部門組織等の評価(集団分析)」を導入したこと
- これを機に職域での健康に係る個人情報の取扱いについて再整理されたこと
が、その後のターニングポイントとして特筆されます。特に「集団分析」は、職場における健康影響の「集積性」を評価する一手段であり、本来はストレスチェック以外の健康モニタリング(一般健診等)でも必要な視点ですが、おそらくこれまでは一部の事業場でしか実施されていなかったと思われます。ストレスチェック制度は、この「集積性の評価」を広く一般化することに寄与したと考えられ、この考え方は後述の「リスクアセスメント対象物健康診断」のガイドライン策定過程でも検討材料とされました。
4)令和6年:リスクアセスメント対象物健康診断
これまで法令遵守型であったことの功罪や、また多くの産業化学物質に含まれる有害性に柔軟に対応することの必要性を踏まえた今般の「化学物質の自律的な管理」への移行に伴い、リスクアセスメント対象物に対しては「リスクアセスメント」の実施が必要となりました。そしてその結果、「リスクが許容できない場合(濃度基準値がある物質の場合は、濃度基準値を超えるばく露のおそれがある場合)」には、医師等による健康診断(リスクアセスメント対象物健康診断)の実施が必要とされました。この制度の詳細はリスクアセスメント対象物健康診断に関するガイドライン(令和5年10月17日厚生労働省公表)をご覧いただければと思いますが、その特徴として、
- リスクに応じて健診実施の要否を事業者が選択できること
- 要否の判断基準となるリスクレベルを、労働者の意見を基に事業者が設定できること
- デフォルトの健康診断項目が設定されていないこと
等が挙げられます。
実は、これらの背景には「二次予防から一次予防への転換」という大きなターニングポイントが含まれています。これまで有害業務の健康診断(特殊健康診断)は、作業環境管理・作業管理では制御できない健康影響を把握する「最後の砦」として、有害要因ばく露による健康影響の早期発見・早期対応(二次予防)として実施されてきました。その意味では、リスクアセスメント対象物健康診断もその目的で実施されますが、今回の法令改正では、健康影響が起きる前の段階で「リスクアセスメント」を実施し、リスクアセスメント対象物健康診断よりも先に、ばく露を把握及び制御すること(一次予防)に重点が置かれています。従って、制御できないばく露による「許容できない健康リスク」に対してはリスクアセスメント対象物健康診断が必要ですが、健康リスクが「許容できる」範囲内に制御できていればリスクアセスメント対象物健康診断は原則的には不要、とすることが可能になります。このことは、「健康診断ありき」ではなく「まずは、ばく露の制御」に資源投入をして、「許容できない健康リスクを減らす」ことの必要性を表していると捉えることができます。
以上の様に、昨今の「職域の健康モニタリング」は、労働者個々人に福利厚生的に実施するだけではなく、少子高齢化の時代背景も相まって、労働生産性の確保や安全配慮義務の履行に不可欠なものとなっています。また、化学物質管理においては、健康モニタリングの実施の有無やその内容について、医師等の意見を基に事業者が自律的に判断をする場面が新たに発生しています。従って、目的が不明確なままで健康モニタリングをすることは得策ではなく、従業員の構成要因や業務内容等に基づき、事業の推進に必要な配慮や事後措置を考慮したうえで、健康モニタリングの結果を活用することに留意をする必要があります。化学物質情報管理研究センターでは、このような新しい時代の健康モニタリングのあり方についても研究の対象としています。