労働安全衛生総合研究所

近代産業安全の礎を築いた人々

 今回は小田川全之と産業安全の先駆者たちの話。労働安全衛生の歴史、特にその思想的背景については平成18年3月に当研究所(統合直前の産業安全研究所)を退職して横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センターに移られた花安氏が詳しい。以下に氏が昨年3月に静岡県で開催された「代戯館まつり」 において講演された内容をお知らせすることとする。当内容は静岡県沼津市上本通り商店街のページにPDFファイル形式で掲載されているが、許可を得てここに転載することとなった。本来であれば当コラム向けに執筆し直すところであろうが事情により困難であるので、html形式に変換しただけで講演当時のまま転載することとした。現状との差は適宜読み替えて頂ければ幸いである。

(理事長 前田豊)




第5回代戯館まつり講演要旨

横浜国立大学
安心・安全の科学研究教育センター
教授 花安 繁郎
ぬましん4 階ホール
2008(平成20)年3月22日



 ご紹介いただきました,花安 繁郎(はなやす・しげお)と申します。本日は,第5回代戯館まつりにお招きいただき有り難うございます。

近代産業安全の礎を築いた人々 大きく表示

 現在,私は横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センターにおいて,全学の大学院生を対象にリスクマネジメントに関する教育に携わっております。具体的には,災害リスクマネジメントのための確率・統計論の講義や,機械設備類のリスクアセスメント実施のための方法論,あるいは最近の流行である職場における安全衛生マネジメントシステムの実施に関する演習等を行っております。

 産業安全に関する研究に長く携わってきましたことから,今回の第5回代戯館まつりの主人公である「小田川全之(おだがわ・まさゆき)」については,日本における近代産業安全運動の草分け的な人物であることは承知いたしておりましたが,沼津代戯館の出身であることは最近まで知りませんでした。この度ご縁がありまして,お話をさせていただく機会を与えていただきましたことを大変有り難く,代戯館まつり実行委員会をはじめ関係者の皆様に篤く御礼を申し上げます。

 さて,小田川全之さんと申しましても,先ほど申し上げました通り,日本における近代産業安全運動の草分け的な人ということくらいしか存じあげておりませんが,ここでは,小田川全之が生きた時代と,当時の社会・教育的な背景を概括し,彼の業績がその後どのように受け継がれて今日に至っているかについて,「近代産業安全の礎(いしずえ)を築いた人々」と題してお話をさせていただきたいと思います。なお,私は産業安全に関する研究者ですが,歴史家や作家ではありません。本日お話をさせていただく内容は,あくまでも私が考え思うことですので,たとえば明治史をご専門とされる方々からはいろいろとご批判がおありかもしれませんが,それらについてはのちほどご指摘をいただければと思います。

明治維新創業期の人々 大きく表示

 さて,いよいよ本題に入ります。今回の主人公,小田川全之,あるいは昨年の第4 回代戯館まつりでの渡瀬寅次郎,はたまた一昨年の第3 回代戯館まつりでの田邊朔郎を語り,さらには代戯館そのものを語るとき,明治維新を避けて語ることは出来ません。

 そもそも明治維新とは何だったのでしょうか?これだけでも膨大な(江戸研究や明治)研究があります。それらの研究は研究として,ここでは,明治維新とは,江戸時代という徳川幕府を中心とした幕藩体制の下で日本国が統治されていた時代から,天皇を頂点にした統一集権型の国家へと変わる過程でなされた行政,司法,軍事,技術,教育など広範かつ深い社会改革を明治維新と呼ぶこととします。

 重要なことは,維新であって革命ではありません。中国では王朝が交代することを易姓革命(えきせいかくめい)と呼びましたが,日本では社会体制が変わるときに革命と名がついた変革はありません。古くは大化の改新もそうです。あえて言えば,平安貴族制度を変えた鎌倉幕府による変革が西洋流の意味での革命に近いかもしれません。明治維新のキーワードは日本を支配していた武士階級が,彼ら自身によって国の変革を行った点にあります。

 よく言われるように,倒幕側の人々,西郷さん,大久保ドン,桂小五郎に続いての伊藤博文(いとう・ひろぶみ)等々と,佐幕側である,ここでは例えば,勝海舟,榎本釜次郎のちの武揚,沼津兵学校関係では西周助のちの西周(にし・あまね),赤松大三郎こと後の赤松則良(あかまつ・のりよし)をあげましたが,皆な文政や天保時代の生まれでずいぶん古い人達です。彼らが倒幕側と佐幕組に分かれて一体何を戦ったのでしょうか。それは,あらたな国づくりの仕組みのあり方であったと思っています。幕藩体制を何とか保ちながら,制度内・体制内改革,強化によって国難を乗り切ろうとした集団,主として上流の武士階級と,幕藩体制そのものを反古にして,つまりそれまでの制度をいったんリセットして新たな国づくりをしようとした,主として下級武士階級との戦いであったと考えています。

 結果は,ご存じの通りリセット組の勝ちです。おかげで徳川宗家は800万石から70万石の駿河府中(静岡)藩へと封地替えとなりました。しかし,薩長土肥の倒幕四藩だけで国づくりが旨くなされるはずもなく,多くの旧幕臣も新たな国づくりに参加しています。幕府側のそれまでの改革努力が無駄でなかったことは,このスライドにもある西周,榎本武揚(えのもと・たけあき),赤松則良らの幕府オランダ留学生組の明治時代における活躍が証明しています。西周は,西洋の哲学思想を我が国に導入し,封建的な学問・思想を脱却して日本の近代思想を理論づけるなど,その業績についてはすでに第2回代戯館まつりで取り上げられています。また赤松則良は明治9-10年横須賀造船所所長時代に日本人の手による最初の軍艦4 隻を建造し,後に日本の造船工学の父と呼ばれた人です。このように,倒幕・佐幕を含めてここのスライドにある人達によって,明治という全く新しい時代の国づくり,創業が進められ,その後さらなる近代化へと進んで参ります。

明治近代化第一世代 大きく表示

 しかし,実質的な意味において明治近代化を担ったのは,安政から文久にかけて生まれた次の世代です。この世代を「明治近代化第一世代」と私は名付けています。ある意味では,彼らこそが,今日でも未だなお輝き続けている近代日本の知性の代表格の人々達です。少しみて参りましょう。

  • 山川健次郎(やまかわ・けんじろう)
    会津藩白虎隊々士。明治,大正時代を代表する教育人。東京帝大,京都帝大,九州帝大等の総長を歴任。専門の物理学分野では長岡半太郎らを育て,後の湯川秀樹,朝永振一郎へとつながります。
  • 新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)
    南部藩士新渡戸十次郎の三男。札幌農学校二期生。農学者,教育者。札幌農学校教授,一高校長,東京帝大教授,東京女子大学初代学長等を歴任。国際連盟事務次長を務める。著書には「武士道」ほかがあります。
  • 内村鑑三(うちむら・かんぞう)
    高崎藩士内村宣之の長男。札幌農学校二期生。キリスト教思想家。聖書講義を通して矢内原忠雄,南原繁など多くの門下生を育てています。「余は如何にして基督信徒となりし乎」,「後世への最大遺物」など感銘深い著述が多数あります。かつて学生時代に彼,内村鑑三の学生時代の受講ノートの展示を見たおり,そのあまりの美しさと見事さに何度も溜め息をついた記憶があります。百年以上も過ぎた今日でもなお十分に評価に耐えうるノートです。
  • 広井勇(ひろい・いさみ)
    土佐藩士子弟。札幌農学校二期生。卒業後米国ミシシッピー河護岸工事に従事し,未だにその護岸は使用されています。また,橋梁(プレートガーダー)建設に関する著書が長く米国での大学の教科書として使われていました。学生時代に其の本をパラパラと読みましたが,なぜ開国後間もない未開国から来た技術者による書籍が教科書として利用されるのであろうか,米国とは不思議な国だなぁーと思ったことを記憶しています。それが米国なのでしょう。帰国後は小樽築港を手がけます。岸壁への波の圧力を計算するための広井公式を提唱するなど,日本の港湾工学の父と呼ばれる業績を残しています。後に東京帝国大学教授として青山士や八田與一らの門下生を育てています。
  • 田邊朔郎(たなべ・さくろう)
    工部大学校卒業後直ちに京都疎水工事を手がけて完成。土木工学の父とも呼ばれる人です。その偉業が第3 回代戯館まつりで顕彰された人物です。
  • 渡瀬寅次郎(わたせ・とらじろう)
    日本の農業近代化に貢献。二十世紀梨の名付け親。ワシントンDCポトマック河畔桜苗木移植に尽力。育英黌農業科(現東京農業大学)設立,沼津興農学園創設など,第4回代戯館まつりで顕彰された人物です。札幌農学校一期生。
  • 小田川全之(おだがわ・まさゆき)
    今回の主人公である人物がここで登場します。業績については後で述べるとして,重要なことは明治近代化第一世代の人だということです。

明治近代化第一世代の特徴 大きく表示

 では何故,彼らが今でも語られる伝説化した業績を残すことが出来たのでしょうか,またその背景には何があったのでしょうか?それについて,重要と考えられるいくつかの特徴点をまとめたのが次のスライドです。

  1. まず,彼らが生きた時代は,武士が武士でなくなる時代です。明治2年藩籍奉還,明治4 年廃藩置県,散髪脱刀令,四民平等,明治6年徴兵令,明治9年秩禄処分と続き,武士階級が崩壊する過程で育っています。
  2. 第二の特徴は教育改革です。それまでは武士は藩校で習い,町人は寺子屋で読み書きそろばんを勉強していました。しかし,明治5年の学制発布により全国に26,000の小学校が開設され藩校と寺子屋の区分は無くなり四民平等の下での能力教育が開始されました。
  3. 同時に,重要と考えられる事柄の一つに,近代化第一世代は幼少期には武士としての躾け教育がなされていたことです。では武士の躾け教育とはなんでしょうか。その代表的なものとしてここでは会津藩での什(じゅう)の掟をあげました。什とは,会津藩における藩士の子弟を教育するためのグループの単位組織で,日々,什の構成員によって7ヶ条からなる「什の掟」の訓辞教育がなされたといわれています。

     これらの7つの掟は,今日から見ると受け入れがたいものもありますが,今でも,あるいは今だからこそ重要と思われる訓辞も含まれています。たとえば,弱い者をいぢめてはなりませぬ,と幼児・年少の時に躾けています。総じて「ならぬことはならぬものです」,要するに「やってはいけないことをするな」と教えているのです。
     ものごとの教え方には,「何々をしなさい」という作為行為を求める教育と,「何々をしてはいけない」といういわゆる不作為行為を求める教育とがあります。「何々をしなさい」という作為行為を求める内容は分かり易いのですが,じつは「やってはいけないことをするな」という不作為行為を教えることの方が本質的でありかつ難しい場合が多いのです。
     私の専門は労働安全ですが,労働関係を規定する労働基準法では,様々な事柄に対して「何々をしてはならない」と不作為行為を規定していますが,働く場での安全の基本法である労働安全衛生法では,多くを「何々をしなさい」の作為行為として規定しています。
     弱い者をいじめることは良くない,男女を差別することは良くない,といわれますが,何故そのようなことが良くないかを理解するためには,自由,人権,平等,社会正義など人類が長い時間をかけて少しずつ獲得してきた普遍的価値の重要性を理解することが必要であり,そのためには個人にとっても長い時間をかけた学習が必要なのです。大切なことは「何々をしてはいけない」ことを幼児・少年期に体得させておき,その本質的な意味をその後の学習によって理解させることです。「明治近代化第一世代」はこのような「やってはいけないことをしてはならない」の体得教育を受けていたことです。
  4. 近代化第一世代の第四の特徴的な事柄として,高等教育を外国人による英語教育で受けていたことです。日本の若者を教えた当時の外国人教師の多くは啓蒙思想の影響を受け,日本を未開国から文明国にするために本当に熱意をもって学問と思想の教育に励みました。W.S.クラークやH.ダイヤーなど,多くの啓蒙的・個性的な教育者から薫陶を受けました。このように,幼少年期での武士の躾け教育と青年期における外国人による教育が,間違いなく彼ら明治近代化第一世代の人格形成に大きな影響を与えたと考えております。
  5. 結果として,当然のことながらキリスト教との出会いがあり,彼らの多くがキリスト教徒となっています。渡瀬,新渡戸,内村,広井の札幌農学校組は全員クリスチャンであり,小田川全之もクリスチャンとなっています。

正しい人間であるための規範 大きく表示

 話は少し変わりますが,新渡戸稲造は明治期までの日本文化論を「武士道」として1900(明治33)年に出版しています。現在でも読み継がれている不朽の名作です。その内容を語るときに,義,勇,仁,礼・・・等で説き起こすことが多いのですが,防衛大学校元幹事(副校長)であった志方俊之(しかた・としゆき)教授から次のように説明した方が今日では分かり易いのではないかと教えていただいたことをスライドにしております。即ち,正しい人間であるためには,まず,肉体的にも精神的にも強いことが求められ,次に什の掟と同じく,弱い者いじめをしないこと,そして,自ら先に刀を抜かないこと,さらに,行為に対して報酬を求めないことが続き,最後に,その人間がさわやかで華があり存在感のある者であること,を説いています。今,私たちはこのような規範を失い,今日までどうして受け継ぐことが出来なかったのかを真剣に考えることが必要な時であると思っています。

我が国の産業安全の先駆者#1 大きく表示

 さて,今回の主人公小田川全之です。代戯館に入学,明治16年工部大学校土木工学科卒業ですから,一昨年の第3回代戯館まつり主人公の田邊朔郎と同期生です。

 卒業後群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち明治23年に古河家に入り,足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組みます。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,明治30年には農商務省からの第三回鉱毒予防令に対して,180日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造,煙突への脱硫装置の設置等の難工事を成し遂げ,鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担っています。明治37-40年には米国に滞在し採鉱・精錬技術の調査に努め,これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想です。明治44年には足尾銅山所長を兼務し,翌年からスライドにある「安全専一」と記したほうろう製の標識を坑内作業所に掲げ,大正4年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど,文字通り事業場での産業安全の先駆的活動と役割を果たしています。安全専一活動は足尾銅山内に留まりましたが,疑いもなく産業安全という普遍的価値実現のための先駆けとなった運動です。

 小田川全之は同時に,米国滞在4年間が古河虎之助の教育係であったように,古河三代目当主古河虎之助の指南役,相談役であり,また,古河財閥山水会や二代目当主古河潤吉を記念する事業のために設立された雨潤会での活動の多くに当主古河虎之助とともに名をつらねるなど,社会活動の面でも大きな役割を果たしています。これらの活動がやがて次の世代の産業安全活動に引き継がれてゆくことになります。

近代化第二世代 大きく表示

 明治近代化は次の世代に引き継がれます。代表的と思われる人々をスライドに記しました。明治中頃に生まれ大正,昭和前半に活躍し,人によっては戦後のかなり後までも活躍しています。

 青山士(あおやま・あきら)は東京帝国大学卒業後米国に渡り,二十世紀最大の土木工事と呼ばれたパナマ運河工事に従事し,測量用ポール持ちから始まり,3年後には測量技師,6年後にはガツン運河設計担当に抜擢されるまでの活躍をしたものの,米国国防上の理由から帰国を余儀なくされました。帰国後は利根川河川改修工事に従事したのち,頻発する洪水対策のために,新潟県信濃川大河津分水路改修工事を昭和6年に成し遂げました。広い見識と高潔な人格により土木の星と呼ばれた人です。静岡県磐田出身ですので,もしかしたら旧幕臣の子弟かもしれません。

 宮本武之輔(みやもと・たけのすけ)も東京帝国大学卒業の後に青山士の下で信濃川大河津分水路改修工事に従事した技術者です。幼い頃父親が事業に失敗し貧乏のどん底にあるとき,彼の能力を惜しんだ地方の有力者の援助によって大学へ進学することが出来た者です。その当時は,優秀であるけれども貧乏のために上級学校へ進めない者に対しては,その地域の有力者が高等教育を受けることを支援する習わしがありました。つまり,人材育成が村興し,地域興しであったわけです。私の学生時代には,札幌市内には荘内寮を始め,仙台寮,秋田寮,会津寮,米沢寮,巌鷲寮など藩閥政治から取り残された東北各地の寮があり,それらの地方の人々の人材育成に掛ける思いと悲願を感ずることがありました。

台湾の人々が守ってくれた銅像 大きく表示

 八田與一(はった・よいち)も東京帝国大学卒業後直ちに台湾に赴き,洪水,干ばつ,塩害によって不毛地帯であった台湾南西部嘉南(かなん)地方15 万ヘクタールを,烏山頭(うざんとう)ダムと16,000km に及ぶ灌漑設備を建設し一大穀倉地帯に変えたことによって嘉南大?(たいしゅう:大水路の意)の父と呼ばれている人です。日本の敗戦後,中国国民党が台湾を統治し日本統治時代を想い起こさせる銅像等がことごとく撤去されたとき,地元水利組合の人々によって八田與一の銅像は隠され,ようやく昭和56 年に再びダムサイトに設置され,現在でもなお地元の人々によって彼の命日には供養が執り行われています。李登輝元台湾総統が来日したおり,八田與一の故郷である金沢を表敬のために訪れたことも知られています。そう言われるとその銅像を見たくなるのが人情でしょう。このスライドが台湾の人々によって守られた銅像とお墓の写真です。ダム工事サイトに座り遠くをじぃーっと見つめ考えている作業着姿の銅像は,よくありがちな威風堂々とした銅像とは異なり台湾の人々が守ろうとした気持ちがよく伝わってきます。
 あとの三人,三村起一,蒲生俊文,伊藤一郎については後ほど説明いたします。

近代化第二世代の特徴 大きく表示

 以上のような近代化第二世代の特徴は次の通りです。まず,もう武士がいなくなった時代です。秩禄処分は明治39 年に終了しました。また,人名辞典を引いてもこの頃から何々藩の藩士誰それの子息という記述がだんだんなくなります。

 また,教育制度が整備され,四民平等の下での能力教育が徹底されます。いわゆるナンバースクールを始めとする旧制高校が設立され,大学も東京帝国大学に続いて京都帝国大学,東北帝国大学,九州帝国大学が明治末までには設立されています。

 同時に,幼少期における武士としての躾け教育が消失した時代でした。ハナ,ハト,マメ,マス。サイタサイタ桜ガサイタでは,弱い者をいじめることや,卑怯な振る舞いをすることが恥であることは教えられません。

 また,大学を中心とした高等教育は,洋行帰りの日本人によって日本語によるかつ実務中心の教育がなされるようになりました。このような教育制度の充実と教育内容の変容とともに,個性は無く小ぶりで試験成績のよい官僚的優等生が育ってゆくことになります。

 そのような中でも,明治近代化第一世代の強烈な個性に大きな影響を受けた者も続きました。先ほどあげた人々は新渡戸稲造,内村鑑三,広井勇らの影響を受けました。青山士は内村鑑三の門下生であるとともに,広井勇の薫陶のもとに育っています。八田與一や宮本武之輔も広井勇の大いなる薫陶の下で育った人です。

我が国の産業安全の先駆者#2 大きく表示

 小田川全之によって灯された産業安全運動は次の世代に引き継がれます。産業安全に関する第二世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ)です。

 二高,東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝)において安全活動を開始します。現在毎年開催されている安全週間運動が最初に開催されたときにシンボルマーク・緑十字を定めるなど,産業安全活動を社会運動へと発展させた中心人物です。大正,昭和戦前,戦後を通じて産業安全活動一筋で生きた人です。

我が国の産業安全の先駆者#3 大きく表示

 東の足尾銅山の小田川全之,東京電気の蒲生俊文に対して西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(みむら・きいち)です。

 一高,東京帝国大学のエリートコースで学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始します。我が国での最初の労働立法である工場法が大正5年に施行されたおりから,工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開しています。大正8年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち,昭和16年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長,同年住友本社理事を歴任します。戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,あるいは初代中央労働災害防止協会会長など枢要なポストを務めています。

 三村起一と蒲生俊文とが出会ったのは大正6 年に三村が蒲生の工場を訪れたときとされていますが,その出会いは三村の一高以来の恩師である新渡戸稲造からの紹介,勧めであったといわれています。また小田川全之と蒲生俊文との接触については,大正6年に蒲生俊文が逓信次官内田嘉吉(うちだ・かきち)らとともに「安全第一協会」を設立し安全第一運動の普及活動を展開したおり,その活動に対する最も好意的な共鳴者の一人が小田川全之であったといわれています。このように,小田川全之や新渡戸稲造らの明治近代化第一世代は産業安全分野においても近代化第二世代と密なつながりがあったと考えられます。

我が国の産業安全の先駆者#4 大きく表示

 もう一人産業安全分野で忘れてはならない人物が伊藤一郎(いとう・いちろう)です。

 明治44年東京高等工業学校卒業後に同校助教授,東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画しています。昭和14年同工場を東洋紡績に譲渡した折り,その売却金50万円を国に寄付し産業安全研究所と産業安全博物館の設立を願い出た人物です。

 蒲生,三村とともに戦後も産業安全運動の推進者として広範な活躍をした人です。

産業安全研究所 大きく表示

 伊藤一郎の寄付金を基に,さらに多くの企業からの寄付金によって昭和17年に設立されたのが産業安全研究所です。

 現在は東京都清瀬市に独立行政法人労働安全衛生総合研究所産業安全研究所として,産業安全のための広範な研究活動を展開しています。ご多分にもれず近年の行政改革の流れのなかで統合,合併の嵐の渦中にあります。

横浜国立大学工学部安全工学科 大きく表示

 大学レベルでの安全教育と安全工学研究の充実については,産業界からは三村起一らの強い建議によって,また学界からは北川徹三(きたがわ・てつぞう)教授らの尽力により昭和42 年に設立されたのが横浜国立大学工学部安全工学科です。大学も組織改革が進み,現在は学部では工学部物質工学科環境エネルギー安全工学大講座,大学院では,環境情報学府環境リスクマネジメント専攻セイフティマネジメントコースにおいて研究教育活動が展開されています。

安心・安全の科学研究教育センター 大きく表示

 さらに関根和喜(せきね・かづよし:センター長)教授らの尽力により平成16年に設立されたのが安心・安全の科学研究教育センターです。同センターにおいて文科系と理科系を融合した広範な安全科学およびリスクマネジメントに関する研究と教育が行われています。

むすび 大きく表示

 いよいよまとめです。まとめの最初は「昨日があって今日があり,今日があって明日がある。」です。

 現在,私は横浜国立大学安心・安全の科学研究教育センターにおりますが,同センターが平成16年に突然設立された訳ではなく,産業安全の先駆者である小田川全之以来の人々によって受け継がれてきた安全という普遍的な価値に対する思いと志がつながることによって設置されたと考えています。同時に,それは明日につながることを意味します。これまでの多くの人々の産業安全に対する志や思いとその成果を明日につなげ発展させてゆくことが今の私たちの役割です。

 沼津も突然出現した訳ではなく,代戯館を通じて世界に羽ばたいていった人々や,この地で生まれ育ち地元の発展に尽くされた人々によって成り立っているはずです。代戯館まつりの意義は,昨日から今日へ,そして明日へつなげ沼津を発展させることにあります。

 また,地元のことは地元の方々が一番良く知っています。いつの時代もそうでしょうが,歴史はそのときの統治の中央で記述されます。従って,ともすれば中央政府の都合で地方が無視されることが起こります。このような不都合を正すためにも,地元から情報を発信することが重要です。最近はインターネットの発達により地元からの情報発信がより多様にできるようになりました。ここで大切なことはその正確性です。洪水のように情報が溢れる中で,正確性,信頼性こそが命です。代戯館まつり実行委員会の皆様がまとめられた資料と情報は正確・信頼性が高く,安心してアクセスできる内容となっています。皆様のご努力に敬意を表したいと思います。

 また,このような事業が実行委員会として地元の多くの方々によって運営されることは,今後の沼津市発展のための大きな原動力になると思っております。皆様の向後のご活躍を願っております。

ご清聴ありがとうございました 大きく表示

 最後に今一度,お招きいただき,またご静聴いただきました皆様に篤く感謝を申し上げます。
 大変ありがとうございました。

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