労働安全衛生総合研究所

伊藤一郎先生のこと

 前号で紹介した伊藤一郎は、経営していた伊藤染工場の度数率を7分の1に低下させ得たとの成果を第1回産業安全大会(昭和7年)において発表しており、また同工場は日本で最初の「安全表彰」を受けているとのことである。

 ここで伊藤一郎先生の経歴を見てみると、明治21年(1888年)4月18日岐阜県高山市に生。東京高等工業学校(現東京工業大学)染織科を明治44年(1911年)に卒業して同校助教授。大正5年(1916年)東京工業大学専門部講師及び伊藤染工場技師副工場主。昭和9年(1934年)伊藤工場主。昭和14年東洋染色株式会社取締役。昭和17年東京市会議員。昭和28年社団法人繊維工業技術振興会理事。昭和28年全日本産業安全連合会を創立、専務理事等として活躍。昭和40年産業安全研究協会(現産業安全技術協会)初代会長、ほか。昭和48年(1973年)3月29日心筋梗塞で逝去。なお、昭和25年第1回労働大臣安全功労者表彰のほか昭和16年紺綬褒章、同32年藍綬褒章、同39年勲五等を受けている。

伊藤一郎先生写真
伊藤一郎先生

 さて、先生は産業安全をどのように見ていたのであろうか。昭和30年の雑誌には、伊藤染工場を経営中、「日本の安全運動が近代的意味に於ける絶対愛、即ち人類最高目的に立脚した精神的努力を認識する時に、そこに無限の価値と尊貴を有するのであり、それが世界平和への途に通じるものであることを悟られた先生の安全運動への決意は崇高にして根深い」とある。これがどのようなものか、今となっては直接教えを受けることはできないのであるが、あるエピソードを元産業安全研究所長の上月三郎が書いているので紹介したい。
 昭和18年頃、千葉県船橋市で大きな爆発事故があり、多数の犠牲者が出た。産業安全研究所から武田晴爾所長(当時)以下が調査にあたった結果、生産に追われて点検を怠ったのが原因であったと突き止め、われわれ(上月)は一応満足であった。

 ところが、新聞で事故を知った先生(伊藤一郎)は、まったく関係がないのにわざわざ犠牲者の告別式に出席され、そっと冥福を祈っていたのである。この話を後に知って、事故の調査のみに頭を奪われていた私は、冷水を浴びせられたような思いであった。その根底に深い人間愛なくして真の労働災害防止はあり得ないことを反省させられたからである。

 最近は研究所においても研究の意義や成果が厳しく問われるようになっている。このため大きな災害が発生すると、労働災害防止を研究目的とする我が所では、研究所の存在感が発揮でき、あわよくば研究予算を獲得するチャンスであると喜んでしまうことが絶対に無いとは言えない。いわゆる他人の不幸を飯の種にしている状態である。しかし、このような考えが伊藤先生に受け入れられることは決してないであろう。そんな不遜な考えであるなら昔の寄附の話は反故にするから返してくれと怒られそうである。おそらく昔よりは格段に忙しくなった現代では被災者の告別式に出席するのもかなわないが、せめて産業殉職者合祀慰霊式への出席と、あとは日頃の行いでお許し頂きたいと思う次第である。

(理事長 前田豊)



文献:
1) 全国安全週間のあゆみ、1977年12月25日、中央労働災害防止協会
2) 産業安全に光を掲げた人々 其の三、安全と衛生、13巻3号(昭和30年)、産業労働福利協会
3) 上月三郎、伊藤一郎先生を憶う、安全、昭和48年5月号、中央労働災害防止協会

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